熱い魂が醸し出す強烈なカタルシス
ドン・ウィンズロウ『犬の力』

犬の力 上 (角川文庫)犬の力 下 (角川文庫)  ふだん、犯罪小説を進んで読むことはない。フィクションの世界に探しに行かなくても、新聞やニュースを見れば、おぞましい犯罪がいくらでも出てくる。

帯のジェイムズ・エルロイの言葉「この30年で最高の犯罪小説だ」にあるように、本書はれっきとした犯罪小説である。本書を手に取ったのは、尊敬する知人が強く推しているからだが、ベストセラーに票を投じたくないという偏屈さもあったことは確かである。

メキシコを主な舞台とし、30年にわたって麻薬を巡る熾烈な抗争が展開される。麻薬撲滅を使命とするDEA(麻薬取締局)捜査官、麻薬カルテルの後継者、高級娼婦、ヘルズ・キッチン育ちの殺し屋、解放の神学に生きる枢機卿。正義を任じる者も、抗争のなかでいつしか自分も手を汚し、悪の力に動かされていることに気づくものの、抜け出す術はない。

タイトルの「犬の力」は聖書からとられており、冒頭に次の聖句が掲げられている。「わたしの魂を剣から、わたしの愛を犬の力から、解き放ってください」詩編第22篇20節。犬の力、それは邪悪の象徴である。

 ありとあらゆる悪徳がここにある。裏切り、憎しみ、暴力、強欲、腐敗、そして殺戮。聖と俗、強者と弱者、男と女の激しいせめぎ合い。虫けらのように人が殺され、血が流される。だましだまされ、裏切り裏切られ、恨みが恨みを呼び、殺戮が新たな殺戮を産む。呻き、あえぎ、罵倒、嘆き――熱い魂が伝わってくる。

凄惨な抗争のなかで出会いがあり、別れがある。なかでも、司祭と娼婦が出会い、心を通わせていく場面が印象的である。

血生臭い物語ながら一気に読まずにいられないのは、ストーリーテラー、ドン・ウィンズロウの面目躍如といえよう。読後、自分の手が血にまみれているのではないかと錯覚しつつも、強烈なカタルシスを感じる。エンターテインメントであり、壮大なサーガであり、聖書を思わせる場面すらある。濃密な時間を過ごした満足感は他に比べるものがない。

今年のベストでは終わらない。わたしにとって、オールタイムベストの作品になりそうだ。

『犬の力』ドン・ウィンズロウ 東江一紀訳 角川文庫

(2009年10月)