4. セシル・テーラー

その日の天気は最悪だった。VICシリーズにもよく描写されているけれども、気候の点ではシカゴはとても住みやすいとは、言い難い。
 明け方から降り積もる雪は、静かに、忍びよるように街を麻痺させていた。早朝から友人を空港まで迎えに行き、激しくタイヤをとられるタクシーにも、サングラスをかけても、目に入ってくる、マフラーを巻いていても、首のすきまに入ってくる雪にも、うんざりしていた。そんな日は、暖かい部屋で、Tシャツ一枚でビールなんかを飲みながらビデオでも観るに限る。
 しかし、朝早く起きたにもかかわらず、一日中緊張感につつまれていた。その日は、待ちに待ったセシル・テーラーのコンサートの日だった。
 アパートからシカゴのLOOPのオーケストラ・ホールまでは、CTA通称“L”で行くのだが、メトラにしろ“L”にしろ悪天候でも滅多なことでは止まらないらしい。ここにもアメリカのたくましさが感じられる。さすがに雪のせいで、かなり時間がかかったが、なんとか遅れずにオーケストラ・ホールに着くことができた。

セシル・テーラー:実を言うと、私にとっては、彼のCDも持っていないし、FMなどで少し聴いたことがあるかな、という程度のジャズピアニストだ。なぜ、何があっても聴きたかったかというと、今や、伝説のジャズピアニストであるということと、私が愛してやまない人物が、かなり入れこんでいるという事実があるからだ。
 第一ステージは、ケニー・ギャレット・カルテット。ケニーは1997年にグラミー賞にもノミネートされた、サックス奏者だ。悪天候のせいで客席には空席が目立っていた。カルテットのメンバーも飛行機が飛ばず、ケニー以外は来ることができなかった。急遽、セシル・テーラー・トリオのベーシストとドラマーが加わって、演奏が始まった。
 インターミッション(休憩時間)にロビーに出てみると、ライブハウス、“HOT HOUSE”のバーテンダー、チャックに会った。「最悪だけど、最高だね」「うん」「今日、このあと、“HOT HOUSE”で仕事なんだ…」「I'm sorry to hear that …」「NO, don't be …」

そしてセシル・テーラーの時間がやってきた。 トリオの予定だったが、ベースとドラムはケニーと演奏したので、彼のピアノだけということになり、何故か、観客は大喜びだ。
 セシルは、七分丈のパンツをはいて、ひょこっと顔を出し、「どもども」という軽い感じでステージに登場した。それにしても、私がシカゴで出会うミュージシャンってどうしてこんなにチャーミングなんだろう。
 高音からピアノが始まった。こんなに観客が静かにしているのを初めて感じた。私も含めて、全員息をのんでいるのがわかる。なんとも、聴いたことのないジャズだった。一見、でたらめに聞こえるピアノの音色は、普段刺激されることのない脳の部分を直撃するように入ってくる。いい音楽を聴くと、いつも頬が緩んでくるのだが、セシルのピアノは眉間にしわを寄せて、聴き入ってしまった。こんな音楽を生で聴いてもいいんだろうか…と思わせるような演奏だ。
 ギャラリー席の後ろのほうに座っていたのだが、演奏中にけっこう周りのひとが席を立つので、「おいおい、帰るなんて…」と思っていたら、違うのだ。みんな、少しでもセシルに近づこうと、メイン席の前方の空席に移動しているのだった。
 3曲めくらいで、誰かが大きいいびきをかき始めて、またしても、「おいおい…」と思ったら、それは、いびきではなくセシルがピアノを弾きながら、うなっているのであった。
 ちょっと弾いてみました…という感じのそっけない態度を見せながら、鳴り止まないアンコールにもセシルは答えてくれた。
 気づくと恋に落ちているように、この日を機会にジャズという音楽にすっかり虜になってしまった。

吉野八英 / Yae Yoshino 2000年3月