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わたしのサラ・パレツキー論(3)

ゴースト・カントリーを読んで

杉谷久美子

『ゴースト・カントリー』を単純に元気回復のために手にした人は、とまどって読むのをやめるに違いない。

 家を出るとすぐに犬を連れたおっちゃんたちが、段ボールを探しながら歩いているのに出会う。ある日店じまいした問屋街を歩いていたら、暗くなった道を犬が走り、リヤカーを引いたおっちゃんたちが段ボールを求めて走っていた。盛り場では深夜に飲食店からゴミ袋が出されると、どこからかおっちゃんたちが現れて、食べ残しをあさっている。
 こういう前々から大阪にいるホームレスの人たちが牧歌的に見えてくるほど、最近は新しいたくさんのホームレスの人たちにであう。高速道路の下や公園や河辺は、ブルーのビニールシートだらけだ。なかにはアウトドア用の大きなテントもあるが、たいていはブルーのシートでかこっている。大阪駅のように毎日段ボールで寝床をつくっている人たちもいる。子供連れにであったこともある。元職人や元サラリーマンなど、いままでにいなかった職業や階層の人たちが大阪の街へきて、ホームレスになって暮らしている。大阪市には現在12000人のホームレスの人たちが居住しているという。東京の倍だそうだ。今年中には20000人を越すだろうとも言われている。

 私自身だってこの不景気の中、毎月の支払いにふうふう言って暮らしている。「板子一枚下は地獄」という実感を去年の夏仕事が途切れたとき、いやというほど味わった。こういう現実の上に暮らしていて『ゴースト・カントリー』を読んだのだから、身近に感じられない人がいるなんて信じられないのだが…。
 しかし『ゴースト・カントリー』は読者を選ぶ小説だと思う。熱烈に好感を持つ人がいる反面、嫌われる度合いも高いだろう。ヴィク・シリーズだってそうだけど、特に『ゴースト・カントリー』はその割合いが高いように思う。ヴィク・シリーズなら、ミステリーファンが眉をしかめつつミステリーの1冊として読むことはあるだろう。働く女性が元気回復剤として読むこともある。しかし、『ゴースト・カントリー』はまずミステリーファンは手にしないだろうし、単純に元気回復のために手にした人は、とまどって読むのをやめるに違いない。

 『バースデイ・ブルー』を書いた後のサラ・パレツキーは、ヴィク・シリーズでは書ききれない思いをどう表現すればいいのか悩んでいたのではないだろうか。
 『バースデイ・ブルー』の最後では、ヴィクは前作『ガーディアン・エンジェル』で恋人となった黒人の部長刑事コンラッド・ローリングズと、あんなに深く愛し合ったのに別れることになる。『バースデイ・ブルー』で事件解明に強烈な自由意志で働いたヴィクは、人種を越えて愛し合った前作以上に、公務員と自営業の生き方の選択をせまられることになった。警察という組織の人であるコンラッドはもうヴィクとは一緒に暮らしてはいけない。そこへ女性のヒーリー巡査が警察を辞めてヴィクと共同で働きたいと申し出る。
 組織を捨てて個人を選んだ2人の女性がこれから探偵事務所を営業していくことになる。新たな困難と希望を予想させる結末でサラ・パレツキーはヴィク・シリーズを終えるつもりだった。それが読者の強い要望にヴィク・シリーズを続けることにはしたものの、一度ここで休み、ずっとこころのなかにあったホームレスをテーマにした小説を書く気持ちが高まっていったのだろうと思う。

サラ・パレツキーは夜の女王が男性の権威に屈することをしなかったために受けた屈辱に思いをはせ、ひとつの物語を書いた。

 ある夜出かけたモーツアルトのオペラ『魔笛』で、サラ・パレツキーは夜の女王が男性の権威に屈することをしなかったために受けた屈辱に思いをはせ、ひとつの物語を書くことを思いつく。ホームレスを助ける団体に出入りしていたころの牧師さんの【「よく想像するんです――シカゴの病院の入口にイエス・キリストがあらわれ、グリーン・カードを持っていないために追い払われる姿を」】という言葉と、この世紀末に世界のあちこちで聖母の奇蹟が起こっているというニュースを結びつけて、複雑で緻密な物語が書き始められた。
 『ゴースト・カントリー』はシカゴの街のホームレスを描くために、主人公として、シカゴの上流階級ではあるが複雑な家族の姉妹ハリエットとマーラ、郊外の中産階級の娘ベッカとその伯母のアル中の元オペラ歌手ルイーザ・モントクリーフ、コンプレックスをかかえた精神科レジテントのヘクター・タマズを登場させている。登場人物はそれぞれの家や束縛していたものから逃れて、その運命をホームレスの世界で交錯する。
 彼らに生きていく力を与え、保守的な人間たちを混乱させて、最後に殺されるのがホームレスの黒人女性、スターである。スターは特別な能力をもち、奇蹟を実現させる存在に描かれている。まるで『魔笛』の「夜の女王」が果たせなかった屈辱への仕返しのように。しかし、生きているスターの勝利は物語でさえもありえなかった。

あたしは自分の人生をどう歩んでいけばいいんだろう。(『ゴースト・カントリー』から)

 私は『ゴースト・カントリー』を読み終え、本を閉じたとき、心がすーっと澄んでいくのを感じた。最近では滅多に訪れない幸福感だ。この本を読みながら、同じシカゴであるせいかもしれないが、70年代のはじめに夢中で聴いたアート・アンサンブル・オブ・シカゴの『ピューピル・イン・ソロー』という曲をしきりに思い出していた。
 そのころの私のこころに深くしみわたり、繰り返し聴いた音楽だ。その時代の猛々しいこころを静め、黙って考えることをすすめてくれた音楽だ。どんな部分の音にも細部までもこだわった長い曲、どの部分もなくてはならない複雑な必然的な音。“平等な社会の実現”という演奏者の思想がこの音楽にこめられているのが、こころして聴くとわかった。アート・アンサンブル・オブ・シカゴが来日したとき、京都は野外で、大阪はホールでのコンサートがあり、両方とも狂喜して聴きにいったことを思い出す。サンケイホールで『ピューピル・イン・ソロー』が演奏されたときのときめきを忘れることができない。“観念の世界で実現された平等な社会”という言葉が、そのころの私の手帳に記されている。いま考えると『ピューピル・イン・ソロー』は、音楽の『ゴースト・カントリー』だった。深くこころを静めて読むとサラ・パレツキーの祈りの声が聞こえてくる…。

 この本の最後で歌姫ルイーザが奇蹟の復活をしてコンサートを開く。それを聴いてマーラが感じる【あの美しい声、あたしを天国へ連れていってくれる声、モーツアルトの音楽に、あるいはそれを表現するルイーザの歌声に匹敵することをなしとげるために、あたしは自分の人生をどう歩んでいけばいいんだろう】という気持ち、そして到達する【いまは、マーラも人生の旅路がそう楽なものでないこと悟っていた。いくらがんばったところで、周囲の世界を、ホームレスがシェルターを手に入れ、(中略)まだまだ完全な癒しを手にしたわけではないのだ。それをめざして、日々苦しい努力をするしかないのだ。】という結論は、私には何回もあって、また、いろいろなことで、いろいろな意味で、いろいろな人たちが味わった結論でもある。そのマーラの結論にいたるまでに織りなされた緻密な「物語」。絶対必要な緻密な細部。
 昔から「物語」は読む人の心にうったえて読みつがれてきた。私自身もたくさんの「物語」に育てられ癒されてきた。サラ・パレツキーはその世界に新しい1冊を加えたのだと思う。

1999年1月

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