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「ハード・タイム」を読んで

V・Iにうつむく仕草は似合わない。

相澤 せいこ

 話の筋よりも、投獄されるエピソードのインパクトが強すぎて、そのことが頭から離れなかった。V・I自身、拘留者として過ごした日々のショックから立ち直るのに、これまでの「危機」とは比べものにならないほどの時間を要した。
 全くの偶然だが、『ハード・タイム』読了直後に「告発」という映画を見た。3年間独房に放り込まれ、見せしめのために虫けら以下の扱いを受けてきた男が、命を懸けて人間性を取り戻す話。そして「スリーパーズ」を思い出す。少年鑑別所での性的虐待行為によって人生がすっかり変わってしまう。復讐を果たしても、決して心の傷は癒されない。
 「刑務所に入る」のは罪人、ということが前提にある。刑務所生活というのは、罰としての役割を持っている。しかし、その一方で、更正期間としての意味も持っているはずだ。ホテル暮らしというわけにはいかないが、人間として心と体の健康を損なわない環境が保証されていないと、社会性を取り戻して、もう一度世間に混じって暮らしていく気持ちが育たない。育ちようもない。
 V・Iが見聞きし自ら体験した人間性を踏みにじる行為の数々は、システムとして成立しているものではない。そこに携わる、主に管理側に立つ人間が立場を悪用した行為である。刑務所に入ることは社会的なペナルティであって、管理者個人の感情によるペナルティはまったくちがうものである。あってはならないものである。
 管理する者とされる者とに分かれる時、本来「管理」はある一定の枠内においてのみ適用されるべきものなのに、なぜか拡大解釈され、管理者の思うがままに扱える、まるで所有物のように、その人すべてを支配しようとする。
 こうした傾向は、何も刑務所だけの話ではない。もっと身近な、普段の私達の生活にも潜んでいる。例えば子育て。「しつけ」の名のもとに、どう感じ取るかまでこちらの意図する方向へ向けようと…している自分がいる。例えば学校教育。「いい子」の鋳型に無理矢理はめ込もうとしていないか?(もっとも、近頃は鋳型も老朽化でぼろけていて、中身の方が暴れ出してるけど。)「管理する・される」の間に生じる、ある種の「権力」が人間を血迷わせるのか。
 心と体を他人にいつ脅かされるかもしれないという状況は、なににも勝る恐怖である。さらに恐ろしいのは、そのことをどこにも誰にも訴える手段がないこと。管理者による「権力」に対抗するには、第三者の目の入る環境であること、相互に評価し合えるシステムがあることが必要だ。子育ても、学校も、会社も、刑務所も。
 やっぱり同じ…。人間同士の問題だから。

 読み終えてから一ヶ月ほど経って、ようやくストーリーへも目がいくようになった。メアリー・ルイーズ・ニーリィは、もっとV・Iをサポートしてくれると思ったのに。でも、「テルマ&ルイーズ」みたいにブレーキなしでどんどん突っ走られても心配なので、これくらい慎重派がいいのかも。マリ・ライアスン、改心(?)してくれてああ良かった。ルー神父は、共に戦える、頼もしい味方。また登場してほしい。あとがきにロティ・ハーシェルを主人公にした小説の誕生予告がありましたね! シリーズと合わせて、ますます楽しみになってきた。
 とにかく、V・I、今しばらくはナイスガイのそばで休養してください。ミスタ・コントレーラスも。

 追記:今回の表紙、しんどい内容そのものでした。黄色の囚人服、うつむくV・I。ほんと、V・Iに「うつむく」仕草は似合わない。文庫版ではりりしい表情のV・Iを描いてほしいなあ。


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