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「ゴースト・カントリー」を読んで

ゴースト・ワールド

北村伊佐子

 読み終わって、一息ついた。ボリュームのある本は好きだが、親愛なるパレツキーの本、ハードカバーと、期待を裏切らない厚みだった。
 しかし一晩たって、読了直後とは違う気分に覆われている。かつて、ヴィク・シリーズ(特に初期の分)を読んだとき感じた、抜けるような青空、ハイヒールを履いて卑しき街を闊歩する自分の姿を連想する、その時とは違う、重苦しい気分。
 いつかどこかで、主人公の格好良さを強調するため、もしくはどんでん返しの大きさを印象づけるために、物語をことさら悲惨に描くという手法があることを読んだが、ちょうどそんな感じ。しかし、ストンズ家の冷酷もラウリー家の暴虐も、「ことさら」ではなく現実にありそうな、というよりある話なのだ。それがまた、この本の読後感を重苦しくしている。
 読みながら、何でハリエットはヴィクのように暴れ回らないんだろう、スパイスの利いた皮肉をいう代わりに、マーラはどうしてあんな露骨な悪態しかつけないんだろう、と歯ぎしりする自分に気づいて苦笑した。私って、ヴィク・ウォーショースキーという、救世主を求めているんだなあ、と。
 読みながら、ミズ・パレツキーはどこまでもミズ・パレツキーだと、好意的でない自分を感じた。この物語は、ヴィクのでてこないヴィクの物語なのだ。

 大勢の人間がひしめき合って、息の詰まるような状況で暮らしている。時には物語が飛散してしまいそうになりつつも、それを一本にまとめる手腕は、やはり、並ではない。しかし、重要人物が多すぎて、どことなくまとまりを欠き、居心地が悪くなるのを私は感じた。最後の部分にしても、どことなく安易な感じを受けたのは、マーラの飛翔に嫉妬と羨望を感じただけではないと思う。こう書くと、はっきりいってただの負け惜しみですが。ヴィクに親しんだものとしては、あの展開、特に結末は予感できたものに思えた。慣れすぎてしまったということか。

 だが、本当に息が詰まるのは、この物語ではなく、私自身の生きているこの世界なのだ。えげつないこの世界… スターも現れず、ヴィクも存在しない。それでいて、イエス・キリストがそのぼろぼろの姿で降臨すれば、うっとうしいホームレスとして(たぶん、真っ先に己の権威の崩壊を恐れる教会から)川へ投げ込まれてしまうかもしれない、この世界。
 ゴースト・カントリーどころか、ゴースト・ワールドだ。私はそう思った。
 しかし、そういったもがき苦しむ状況で、大切なのは「なにが自分のなかで真実なのか」を、自分の中に積み上げていくことなのだろう。地味で地道だが、それしかないのだと、わたしには感じられた。あまり強調しすぎると「精神論」になってしまう危険もあるが。だが、結局はヴィクの言葉にすがっている自分に、ここでまた苦笑。
 ヴィクの再登場を期待しているが、それは私の偶像に過ぎないのかもと考え始めている。サラさんは、少し疲労気味ではなかろうか…。ヴィクを離れて、新しい物語を編み上げてもらった方がよかったんじゃないだろうか。それとも私のほうが、ヴィクからの乳離れの時期を迎えているのかもしれない。
 などといいつつ、やっぱりヴィクの勇ましさを待ちこがれている。ただ、焦らずに。サラさんにはじっくり書いていただきたい。

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