VIC FAN CLUB
VIC FAN CLUB: CHICAGO

ヴィクのシカゴ 1995.6

梅村 浄
Kiyora Umemura

「彼女は実在の人物じゃないわ」
前の晩にナンシーに言われても懲りずに、
私は一人でラシーヌアベニューに出かけていった。
そこがヴィクが暮らしている土地だから。

 「で、明日はどこをまわるの?」
 ナンシーに聞かれた時、私は返事につまってしまった。
 「ラシーヌアべニュー」
 「おー! そこにいっても何もないわよ」

 シカゴ滞在も行動できるのは、あと1日しかなくなった6月22日の夜、一緒に食事をしたナンシー・ハルに笑われてしまった。ナンシーはスピーチ・セラピストとしてシカゴ市内の病院や学校で仕事をしている。イタリアからの移民で43才。3児の母。
 私たちはNHKラジオ英会話実践ツアーで、6月17日に成田を発ち、ニューヨークをまわってシカゴに着いた。このツアーは毎年2回、NHKラジオ英会話の講師と共に英語圏の国を訪れ、現地で生活しているさまざまな人にインタビューをしている。NHKのスタッフが同行して、その時録音されたテープは8月と12月に放送されている。今年は2月がアトランタ・ニューオーリンズだった。私が参加した今回のツアーは、講師の一人であるシカゴ出身のクリス・フィーランと共にニューヨークでは国連を訪ね、教育プログラム担当のマリア・アルメイダから国連の機構についての講義を受けたり、ニューヨーク市警のオスカー・オドム刑事に、コンピューターによる前科犯の探索を、実際にコンピューターを動かして披露してもらったりした。
 この晩、ショウマンズ・カフェーでの食事後、ホテルに戻ってからナンシーのインタビューもあった。私たちが泊まったホテル・ニッコーはシカゴ川に臨んだ日系のホテルで、日本食のレストランもある。日本語も通じる。もっとも、英会話実践ツアーなのだが、旅の間中、日本人同志は日本語で通していたので、気が楽だった。
 翌日、ツアーの人たちの大部分は、フランク・ロイド・ライトの建物を見に行った。
 「彼女は実在の人じゃないわ」
 前の晩ナンシーに言われても懲りずに、私は一人でラシーヌアベニューに出かけていった。そこがヴィクが暮らしている土地だから。
 ヴィクトリア・イフゲニア・ウォーショースキーは、シカゴに住む女性作家サラ・パレツキーの探偵小説に登場する女探偵である。シカゴに行くことが決まってから、ガイドブックに載っていた情報を手がかりに、彼女の本を読みはじめた。最初の一冊が『ガーディアン・エンジェル』だったから、つい重いこの本を持ってきてしまった。十冊近くある日本語訳のうち、ほとんどは文庫本で、ハードカバーはこれと最新作の『バースデイ・ブルー』だけなのに。この中に描かれているヴィクが住んでいる通りを、何度も地図の上に探した。地図はJALシティガイドマップでは間に合わず、ランドマクナリーのシカゴ市街図を購入。マーカーでしっかりと通りに印を付けた。

 帰国してから、丸善でペンギン・オーディオブックスの『ガーディアン・エンジェル』を見つけて、今聴いている。朗読はジェーン・カズマーク。ブロードウェイで活躍している彼女は少しかすれた声でヴィクを演じている。この小説は一人称で書かれているので、よけいその声がヴィクのイメージをくっきりと切り取ってしまうのかもしれない。アパートの階下に住むコントレーラス老人、ヴィクの友人で周産期医のロティー…それぞれの登場人物が背負ってきた歴史と母国語の訛りを含めて、実在のもののように感じられてくる。
 「ボーイ、あんたたちのうち何人がダイヤモンドヘッドについてしってるの?」と会議にのりこんだヴィクが啖呵を切る場面を、彼女の声できくと「やあ、まってましたー!」と拍手をしてしまう。それはいつも男たちが優位にたつこの社会で、女たちが言いたくても言えないことをヴィクがすぱっと吐き出してくれるからなのだ。

 タクシーの運転手は韓国系の人だった。行き先はベルモント・ハーバーから、カブスのリグレー球場、そしてリンカーン・パークと告げると
「ピクニックに行くみたいだね」と言われてしまった。
 私が日本人とわかると彼は、梅村は漢字でどう書くのか尋ねてきた。紙に書いて渡し、今度は彼の名前を漢字で書いてもらった。ミシガン湖に沿ったレイクショアドライブは片側だけで5、6車線もある。この国の右側通行には慣れることができない。曲がるときにいつも、反対側の車線に間違って入ってしまったような錯覚にとらわれてしまう。ベルモント・ハーバーに着いて料金を払いタクシーを降りる時「迷子にならないようにね」の一言。

ありました、ラシーヌアベニューが…
そこは両側とも並木で歩道と車道が分けられている
静かな住宅街なのだった。

 降りたところで、コンビニに入って昼ご飯の調達をした。けさはホテルで和定食を食べたから、お昼はパン1個に桃、それにミネラルウォーターだけ。お土産にガーミーベアーを買った。十年くらい前、まだ日本にはグミがなかった頃アメリカからのお土産にもらって、子どもたちが珍しがったお菓子だ。レジでドルをほとんど持っていないことに気付いて、トラベラーズチェックで支払おうとしたら…50ドルで大きすぎて、使えないという店員のこたえだった。さあ大変、おさいふ中をかきまわして7ドル87セントを払った。
 使えるお金はわずかなコインだけと心細くなりながら、まずベルモント・ハーバーヘ。日差しは暑くもう夏だったが木陰は涼しい。ベンチが所々に置いてあった。ハーバーにはヨットが所狭しと係留されている。意外に水は澄んでおり水草が生えているのがわかる。ベンチで休んでいる老夫婦。ブランコで遊んでいる子どもたち。もう夏休みなのだろう、小さい子と一緒に小学生らしきでっかい体つきの男の子を見かけた。ジョギングをする女性はスニーカーにランニング姿だ。 

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ベルモントハーバーにて。遊んでいる子供たち。

 しばらく休んでベルモント通りを歩きだした。レイクショアドライブに沿った一帯は、高層のアパートが建ち並ぶヤッピーの棲みかである。しかし、私たちが泊まったループ地区の建物のような華麗さは全くない。質素ともいえる。間もなくベルモント通りがクラーク通りと交差する辺りにでた。この地域は別名パンク通りと呼ばれているが、金曜日の昼下がりにはどこからもパンク野郎は現れずがらんとしていた。さらに西に歩いて行ったが、ラシーヌアベニューと思しき表示を見付けることができなかった。地図を出して確かめたかったのだけれど、ニューヨークで口を酸っぱくして「道で地図を拡げるようなことは決してするな。スリやかっぱらいに目を付けられるぞ」と注意されていたので、ここは我慢して仕方なくクラーク通りを北へ、リグレイ球場を目指す。

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リグレイフィールド

 今日は試合のない日なのだろう。球場の周りは閑散としていた。もういい、とにかく地図を見てラシーヌアベニューを確認しなくてはと、球場の前で、堂々とランドマクナリーの地図を拡げて見る。おー、ラシーヌアベニューはあと2ブロックではないか!
 ありました、ラシーヌアベニューが…そこは両側とも並木で歩道と車道が分けられている静かな住宅街なのだった。駐車スペースは敷地内にはなく、車は車道に停めてあった。いつもヴィクが愛車のトランザムを自宅の前に停めたり、尾行をまくために数ブロック先の道路に停めたりしていることが不思議だったのだがこれで納得。広い幅の車道は両側に駐車してもまだひろびろ、日本とは違うのであった。金曜日の昼間のせいか、ほとんど人っけがない。
 ラシーヌアベニューはやがてグレースランド・セメタリーにぶつかって途絶えてしまった。ここは墓地。墓碑がつぎつぎと建っているのを見ながら歩いていった。墓碑石には亡くなった人の名前と生年と没年、それに言葉が彫られている。1800年代の年号も見られた。
 モントローズ通りでこのセメタリーは終わった。右に曲がり、歩いていったがどうも自信がない。角にあった空き家に入りこんで、入り口の階段に座り、もう一度地図を確認する。この辺りでよく空き家のはり紙を見かけた。ノブを回してみたが、ドアは閉まっていた。道はこれで間違いなし。
 ラシーヌアベニューが再び続いていた。前庭に芝生があるれんが造りの3階建ての家が、ちょうど曲がり角にあったので写真をとった。真ん中にあるドアの両側に白い円柱が建っており、ひさしの上の窓は白い縁取りのある両開き窓、それぞれの階の窓は白い枠で囲まれており、道路との間は低いフェンスで仕切られている。こぎれいすぎて、ヴィクのアパートのイメージとあわない。裏庭がある3階建てのアパートがこの裏側にあった。外階段で上がり下りするようになっており、ドアの所には鮮やかに咲いた花の鉢がたくさん飾ってある。コントレーラス老人が野菜を作っている庭のようで気に入ってしまった。裏木戸の外には塀にそって黒い車が停まっていた。

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〈左〉ラシーヌ通りの標識と煉瓦建てのアパート 〈右〉ラシーヌ通りの裏にあったアパートと裏庭

ヴィクの事務所のビルは、ウォバッシュアベニューと
モンロー通りの交差する辺りにあるんだが、
と思いながらウォバッシュアベニューを歩いていった。

 『ガーディアン・エンジェル』は、このラシーヌアベニューをひとつの舞台にしている。この本はヴィクとコントレーラス老人が共同で飼っているゴールデンレトリバーのペピーが8匹の子犬を産む場面から、始まっている。ヴィクのアパートの近くに住む一人暮らしで80才代のフリッツエル夫人が飼っていたラブラドル犬が、ペピーを妊娠させたのだ。子どもを産まない選択をして生きているヴィクと、3人の子持ちの私の日常はかけはなれているはずなのだが…。ラシーヌアベニューに住んでいる老人たちの事件に巻き込まれて、徹底して事実をあばいていく彼女の姿は、子どもと老人という違いはあっても、一人の人間に寄り添い責任をとるところに共感して、私はぐっときてしまうのである。

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ラシーヌ通りの歩道

 だんだん北にいくにつれて、アフリカ系アメリカ人の住人が増えているようだ。テニスコートでは中学生たちが誘いあわせてテニスをしており、うちの前で車を洗っている人もいる。
 そろそろお腹が空いたよ。再びモントローズ通りに引き返して、モントローズ・ハーバーの方へ歩いていった。ミシガン湖が見える所まで来て、さっきの昼ご飯を食べる。桃はかりかりして噛むと汁がしみでてくる。パンとぬるくなったミネラルウォーターでも、結構お腹がいっぱいになった。さあそろそろ戻ろう。
 ところが…お金がない。タクシーはのれないし、なんとモントローズ駅からレイブンスウッド線の電車に乗って帰る1.5ドルさえなかったのである。どこかで買物をしようとまた、モントローズ通りを戻るが、この辺りはコンビニやクリーニング屋ばかり。仕方がないので、セブンイレブンに入ってお菓子、マカロニ、などなどを山のようにレジに持っていく。やっぱり、トラベラーズチェックは使えないと言う。どこでドルに替えられるのかきくと、場所を教えてくれた。よくわからないので、紙切れに書いてもらって探しにいく。

 言われた通りに来てみたがどれがそうなのかわからない。うろうろしているうちに、パトカーを停めて誰かと話していた警官を見かけて尋ねてみた。
「どこでドルに替えられるのか」
「ほらあっちだよ」
 指差してくれた方をみると、ちょうど交差点の所に両替所があった。
 そこではトラベラーズチェックの交換だけではなく、たとえばLの電車や市バスに乗るためのトークン(コインのような切符)を売ったり、お金に替えたりもしている。窓口に並んで順番を待った。ヒスパニック系の親子、白人のでっかい男性の次だった。係りの女性が何か言っているが解らない。困っているともう一度「チャージ」がどうとかこうとか言っているようなのだが「チャージ」って何だったっけ? とにかく「イエス」と言っておこう、お金がないんだから。
 50ドルのトラベラーズチェックを出したら、今度はパスポートを見せるように言われた。コピーでは駄目だというので、ズボンの内側に大事に入れてあったパスポートをひっぱりだして見せる。替えてくれたお金の額は48.5ドルで1.5ドルが引かれていた。チャージとはこのことだったらしいと、後になって解る。
 さあもう大丈夫、気が大きくなって私はタクシーを停めて乗り込んだ。今度はヴィクの事務所の辺りを探しにいこう。レイクショアドライブを離れて、ループの中に入ると夕方のラッシュにひっかかりぜんぜんタクシーは動かない。疲れているので黙っていたら「明日からシカゴ・フード・フェスティバルがあるよ」と運転手が教えてくれた。残念、もう明日は帰らなくてはならない。
 シカゴ美術館前で降りると、ミシガンアベニューは帰宅する人たちでいっぱいだった。シカゴ交響楽団のオーケストラ・ホールが向い側にある。ヴィクの事務所のビルは、ウォバッシュアベニューとモンロー通りの交差する辺りにあるんだが、と思いながらウォバッシュアベニューを歩いていった。確かに1つだけ、ただ今とり壊し中のビルがこの通りにはあった。しかし、モンロー通りとの交差点にあるビルは、古いけれども下に店が入っており、なかなか繁盛しているのだった。ふーん、こんなとこかあ。小説の中じゃあえらいさびれてる様子だったのに…。

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〈左〉ウォバッシュアベニューの壊されているビル 〈右〉ウォバッシュアベニューとモンロー通りの交差点近辺

 本屋に入ってお土産の本を買う。絵本と家庭医学書。それについ自分のために1冊買ってしまった−初心者のためのマルコムX。レジのお兄さんがこの本をみて人なつこく話しかけてきた。
 「自分はニューヨークで、彼の住んでいたアパートの近くに住んでいたんだ」
 もちろん彼はアフリカ系の顔立ちをしていた。
 こうして私一人で歩いたささやかな『ヴィクのシカゴ』を尋ねる旅は終わった。翌日、ツアーの一行とともにオヘア空港から飛び発った私は、家族におみやげをいっぱいかかえて帰るやさしいママの顔に戻っていたかどうか…?

1995年12月