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kumikoのほとんど毎日ページ
2003年2月

 


三女の物語 絵本「ほしになった りゅうのきば」


まだ5冊ほどしか見ていないが、赤羽末吉の絵本に惚れ込んでいる。どの本も見開きにしたときの構図が大胆で美しい。日本の昔話が素朴を通り越してシュールで楽しいと思っていたら、モンゴルの民話「スーホの白い馬」の悲劇的な物語に合った絵が素晴らしかった。いま見ている「ほしになった りゅうのきば」は中国かチベットかという感じだが、物語と絵のスケールの大きさに圧倒される。
子どものいない老夫婦のもとに山のてっぺんから石が落ちてきて割れ、その中から白い綿の花にくるまれた子どもが出てくる。サンと名付けられた子は成長して立派な若者になる。そのころ2匹の竜がケンカして天にぶつかり天が破れてしまう。天の裂け目から雨が滝のように降って、人々は洞穴に逃げ込むしかない。サンは天を繕いに出かけることにする。何日も歩き続けて峻険な山に登る。ある日長いヒゲが下がってくる。サンはヒゲに飛びついて登ると、立派なヒゲの持ち主の老人は、娘といっしょに天を繕えばよいと言う。長女は即拒否、「あそぶほうがすき」と言う。二女も同じく。三女はサンと協力すると言い、羊に乗って2人で天へ飛ぶ。2人の命がけの努力でやがて天は修理され、雨は降りやんだ。2人はいまも飛び回っては天の裂け目をつくろっているそうな。
さて、三女である。シンデレラやプシケや美女と野獣など、苦難にあった女性がのちに幸せになる話はすべて三女になっている。前にもこのページで書いたと思うが、現実には一発逆転はあろうはずなく、物語は三女の夢なのであろう。わたしが若いころ、台所で豆の皮をむいたりしていると、長女が遊びに出かけるところで「この子はシンデレラみたいな子やなあ」と言った。これは王子様と知り合うはずがないという前提のもとの発言である。ちなみに、その三女はわたしね。
この本では結婚して幸せになるのではなく、共に働くことが幸せなのである。それがアジアの民話であることにじーんとなった。

2003.2.28


フェンネルのスープ


昨日の朝はフェンネルのスープをつくってみた。フェンネルの姿は知っているが食べるのははじめてである。はじめての素材で料理をつくるときはまず丸元淑生さんの本を開く。フェンネルを使った料理をどこかで見たぞと探して5冊目、「続 新家庭料理」に白花豆と冬野菜のスープがあった。
すぐに食べたいので白花豆を水でもどすのはやめて、あり合わせの野菜でやってみることにした。使ったのは、ニンニク、タマネギ、ニンジン、生シイタケ、セロリ、そしてフェンネル(食べるのは根の部分)。鍋に冷凍しておいたスープストックを入れて、フェンネルの茎(タテに切っておく)と葉を入れ、煮えたところで茎と葉を取り出す。フライパンでニンニクをオリーブオイルでよく炒め、次にタマネギを炒め、そのあとに他の野菜を入れてまた炒める。炒めた野菜をスープに入れて30分煮る。できあがりにきれいな緑色のフェンネルの葉を少々刻んでかける。なんとも言えない風味があるおいしいスープができあがった。豆を入れたらもっとこくのあるスープになったに違いない。
今朝は残った茎と葉を水に入れて煮立ったところで生鮭を茹でた。いつもは野菜屑にパセリやセロリを加えるところをフェンネルだけにしてみたが、香りが良くていい感じだ。レモンを添えて、マヨネーズと酢を混ぜたソースをかける。グリーンサラダを添えて、うまい朝飯だった。

2003.2.27


ふきのとうの天ぷら


ああ、うまかった。ふきのとうの天ぷらを生まれてはじめて食った。いつもいただいても、食卓のいろどりとかみそ汁に入れるとか、春の気分だけをいただいたって感じなんだけど、近ごろ天ぷらに凝りだした相棒が、これはうまいぞと揚げてくれた。あたしは揚げ物って生まれてから3回くらいしかしたことのない人である。なんとなくめんどくさくって。
揚げてもらったふきのとうの天ぷら、おいしかったです。ネットで検索したら、山形県の「山菜屋どっとこむ」がでてきて、天ぷらの料理法が書いてあった。まず、ふきのとうをきれいに処理して水につけておく、次はまな板の上でちょっとつぶしておく(火の通りをよくするため)、コロモは薄くして170℃〜180℃で揚げる。
いやまあ、揚げたてがおいしゅうございました。山菜は天ぷらに限る(笑)。
泉北に住んでいたころ、近くの丘によくタラの芽を採りにいった。東北出身の友人が教えてくれたのである。彼はこんなところにタラの木があったのかと感動していた。そのころはほんとに駅のそばのちょっとした丘にもあったのである。えっ何年前の話しかって? 20数年前のことでやんす。春の日曜日、採ってきたばかりの、タラの芽の天ぷら、ノビルの酢みそ、セリのお浸し、ツクシの卵とじを肴に白ワインを飲んだっけ。
いまや、タラの芽だけでなくあらゆる山菜が百貨店やスーパーで売っているが、買うてまで食べる気はせえへん。タダであれだけ食べた記憶があるんやもん。

2003.2.26


春の香りがとどいた


朝一番に宅配便がとどいた。包みを開けたら春の香りがただよってきた。和歌山に住む友人が送ってくれたのだ。ふきのとう、みつば、フェンネル、セロリがひとつかみずつ入っていた。
さあ、どうしよう。今日の晩ご飯メニューは決まっているので、ふきのとうは明日天ぷらにすることに決まった。みそ汁にも少し入れよう。フェンネルは朝のスープと魚の香りづけに使おう。みつばはおひたしに、セロリはスープに入れたりサラダに使おう。決めてからみんなザルにいれて写真を撮った。その後ふきのとうをお皿に浮かべてテーブルに置いた。春だ〜。
夕刊のスポーツ欄を見ていたら、ニューヨークメッツの新庄くんが紅白戦でホームランを打ったと出ていた。しかしホームランを打ったのに写真がない。打てなかった松井選手の名前が大きくて写真もあるのはなんでや? 7時のNHKニュースに期待したのに、松井、イチローがあって、新庄がないのはなんでやろ。なんでやねん? なんでやねん? それはなんでやねん? って、つい口ずさんでしまった。
いま10時のニュースを見たらNHKは松井・イチローをちゃんとやったのに、新庄は動く映像なし。えいっとニュースステーションにまわして、ようやく新庄がホームランを打つたところを見ることができた。

2003.2.25


荒木経惟「センチメンタルな旅・冬の旅」


今朝の朝日新聞で荒木経惟のインタビューを読んだ。朝からシャッターを押し続けている様子にこちらも元気づけられた。わたしは彼の写真のファンというわけではないが、1冊だけ大切にしている写真集がある。「センチメンタルな旅・冬の旅」である。これだけは手放せない。
2月はわたしにはつらい月である。よりによってバレンタインデーの夜中に飼い猫の花子が死んだ。それから丸3年経った。外出から帰ったとき、迎えに出てくる花子の姿を探すときもあるし、19年いっしょに暮らしたのが遠い過去のように思えるときもある。夢の中で両足の間にはまりこんで寝ている花子の重さを感じることもある。
「センチメンタルな旅・冬の旅」を広げると荒木経惟と亡くなった妻の陽子さんの新婚旅行の写真があり、病院の写真があり、お葬式の写真がある。生と死が1冊の写真集に詰まっていて、最愛の猫チロが生きている。しーんとした気分になる。
中でも外箱の写真の少女の表情がいい。本を開くと全体の写真があってわかるのだが、どこかのお店の前にある立て看板である。箱では少女に見えるが、本の写真では成熟したおんなに見える。長いふわふわした髪でおちょぼ口で、黒い猫を抱いている。じっとどこかを見つめている猫の表情もいい。(新潮社 2700円)

2003.2.24


「モンテ・クリスト伯」を何千回


昨日はVFCの例会前にジュンク堂へ行きたかったんだけど、時間がぎりぎりだったので、堂島地下街の旭屋書店で間に合わせることにした。この店は狭いが本の並べ方がうまい。年末にサラ・パレツキーの「ビター・メモリー」が通路からよく見えるところに2列の平積みになっていた。会社勤めの女性が通勤のとき目にするようにだろう。昨日はわたしも店に入ったところに平積みの「まれに見るバカ女」(宝島社)をひょいと買ってしまった。1260円もしたのに。
政治、文学、思想、業界の第一線で活躍する女性たちをクソミソに書いていて心地よい本である(笑)。やっぱり文学系から目を通していくと中島梓があった。最近の失言からはじまって、ずいぶん昔のことも書いてある。1985年5月12日と日付がある。このために置いてあったんやな。中島氏が朝日新聞で「モンテ・クリスト伯」を愛読書として挙げ、これを何千回も読んだと書いている、と書いてある。実はわたしもこの新聞を読んで覚えていた。ただ、わたしは「白髪三千丈」みたいなもので、要するに中島氏は何度も読んだと言いたいんだろうと思っただけである。うふ、わたしって善意の人だな。
だけど、これからは他山の石として気をつけなくちゃね。メグ・ライアンが「ユー・ガット・メール」で「高慢と偏見」を200回読んだと言っていたと書いたその後に、わたしは20回くらい読んでいると書いたことがあるけど、これはほんとだもんね。

2003.2.23


伊勢古市を歩く


朝食メニューを書きだして1週間、忽然と甦ってきたのがおいしい朝食を食べた記憶である。70年代はジャズを聴き、維新派の芝居を見たり役者とつきあったりした以外にもいろんなことをしていたのを思い出した。ひとつは関西方面のあちこちへの日帰りの旅である。これは思い出しつつ書いていこうと思うが、まずはおししい朝ごはんを食べた伊勢古市の話である。
伊勢は日帰りにはちょっと遠いので、朝早い電車の指定席を先に買っておいた。大慌てで起きて朝ごはん抜きであわてて近鉄電車に乗ったが、お弁当は売ってなかったのかな。宇治山田駅に着いてから、予定通りにすぐバスに乗って古市まで行った。そこで見つけた大衆食堂でようやくありついたのだが、そこのごはんがおいしかった。ごはんとみそ汁と卵焼きとたくわんというシンプルこの上ないものだったが、卵焼きなんか卵何個分もあるという大きさだった。食後、その店の主人が書いたという郷土史みたいな本が棚に置いてあったので買った。主人と言ってもごはんをつくっている人である。住所が書いてあったので、帰ってから朝ごはんがおいしかったと手紙を出したら、おいしそうに食べている姿を覚えていると返事をくださった。その本はえらく勉強になったがどこへ行ってしまったやら…。
さて、おいしい朝ごはんを食べてから古市の町を歩いた。内宮と外宮の間に開けた町で大歓楽街があったところである。なんで行ったかというと、中里介山「大菩薩峠」で間の山(あいのやま)の女芸人、お杉とお玉が出てくるところを読んで、一度雰囲気を味わいたかったからだ。それと歌舞伎の「伊勢音頭 恋寝刃(いせおんど こいのねたば)」である。貢という主人公に惹かれていたので、その舞台となった場所を見たかった。当時はまだ昔の遊郭の建物が残っていて情緒を味わえた。

2003.2.21


朝食のメニュー


このページによく食べ物の話を書いているので、「子育ち食堂」(当サイトのリンク集からいけます)の経営者るりこさんがメニューを書くように誘ってくれた。彼女は毎日の夕食メニューを「献立日記BBS」(うちの夕ごはん。ほぼ毎日更新)に毎日書いている。メニューと身辺のお話が楽しい。
それで、るりこさんの軒先をお借りして、うちの朝ごはんメニューを書いてみることにした。うちの朝ごはんは豪華(皿数が多いだけだが)である。お昼はカンタン、夜は簡素だから、るりこさんの夕ごはんに対抗するには、朝ごはんだと思った(笑)。だいたいにおいて、丸元淑生さんの本で勉強したものを自分流にアレンジしたものが多い。
書き始めたら、るりこさんがコメントを入れてくれるのが楽しい。また返事したりして、けっこう井戸端会議みたいになっている。
そんなわけで13日から毎日書いてますので、何度でものぞいてみてください。

2003.2.20


花粉症の季節が今年もやってきた


数日前からクシャミが出てしようがない。家でも道でもバスに乗っても出る。クシャミが出ると鼻水が出る。鼻をかむと、その後は目の痒みとなる。まだしょっぱならしく、症状はあんまり激しくない。2・3日後がどうなるか…。
今夜はテレビで花粉症の薬の飲み方の解説があったので見ていたが、たくさん薬があるのに驚いた。わたしは薬を飲んだことがない。薬を飲んでも治らないと信じているからである。今夜の番組でも薬では花粉症は治らないが、症状を緩和することはできると言っていたんじゃないかな。ちょっとうかうかと見ていたのではっきりしないが、病院で診てもらい、自分にあう薬を飲んだらいいらしい。
わたしの場合は、せっかくの花粉症は楽しまなくちゃ(?)と思って、ぐずぐずと耐えているうちに春がやってくるのである。くしゃん。

2003.2.19


確定申告に行ってきた


今年も早いとこ確定申告をしに税務署へ行くことができた。今日はまだ受付日の2日目である。昨日がんばって書いたんだから…。お昼過ぎに中央大通りまで用事で行ったのでそのまま西へ向かい、木津川大橋を渡ると税務署がある。今日は寒くて川風が冷たかった。特にこの橋は高いところにある。自動車道路と地上に上がった地下鉄が並んでいる横が自転車道と歩道である。橋の手前にある元大阪市の研究所の建物に塀が巡らせてある。長いことほったらかしであったが、とうとう取り壊しかな。ここの塀際にたくさん実をつけたヘクソカズラがからんでいたのだが、これからは頂けなくなってしまった。ここでヘクソカズラのドライフラワーを採って帰るのが税務署行きの楽しみだったのに。
税務署は空いていてすぐに用事は終わってしまった。帰りは本田を通って松島公園に出た。この公園の端にプールができるのだ。居合わせた工事の人に、いつできるかを聞いたが、わからないと言われてしまった。今年中にできるかと聞いても、答えられないそうである。塀に窓がついていて中がのぞけるようになっている。見たけど土をほじくっているところで、まだまだかかりそうだ。大渉橋を渡って帰った。川や橋ってなんかほっとするものがある。
さあ、これで一仕事すんだ。毎年元気で(でもないけど、まあ、そこそこでも)働けて年に1回は歩いて税務署まで行けてありがたし。

2003.2.18


桂文紅「鬼あざみ」


日曜日夜11時10分からのテレビ「上方演芸ホール」を見逃さないようにしている。昨日は桂文紅師匠の「鬼あざみ」であった。はじめて聞く演目だし、桂文紅という名前もはじめてなので期待してテレビの前に座った。けっこう年をとられていて、痩せていて耳が大きく見える。
清吉という子どもが母親(継母だがちゃんとした人)に芝居を見に行きたいからと30文というお金をせびる。母親は芝居のお金だけあげるから、家でごはんを食べていくように言って支度するが、そのお膳を蹴飛ばして外に飛び出す。そして水たまりで着物を汚す。父親が帰ってくると、母親に蹴飛ばされて転んで汚したとうまく言うのを、父はそのまま信じて夫婦げんかになる。まったく困ったガキだ。家主が父親を諭すのだが、清吉がすでに何度か泥棒をしているのを家主は知っていて、奉公に出すように言う。それから10年、父親は酒もほどほどに仕事にせいを出している。そこへ清吉がきちんとした身なりで戻ってくる。身なりがよすぎるのを疑い、風呂屋へ行かしたあとで財布を見ると大金が入っている。さては真面目に奉公していると思ったのに・・・と夫婦で嘆いているところに戻ってきた清吉は、自分は盗人だと白状して去っていく。薊の清吉と言われた盗賊の、子どものときの悪心が治らずにとうとう大泥棒になったという物語である。
悪党に成長してしまう清吉の、子ども時代の物語は凄みがあって、噺に引きずり込まれた。名人と言われる人のことを、昨日桂文太さんが話してくれたところだが、この桂文紅さんも名人だと思った。
番組の解説者が言うには、歌舞伎の「十六夜清心」(いざよいせいしん)で知られる清心はこの噺の清吉だそうだ。河竹黙阿弥の「花街模様薊色縫」(さともようあざみのいろぬい)がそうで、だからちゃんと題に「薊」と入っているんだって。江戸市中を驚かせた大泥棒を主人公にしたこの芝居の初演は幕末の争乱期だった。

2003.2.17


田辺寄席 第348回(2003年2月)


演目は「開口0番」桂文太、「池田の猪買い」桂雀五郎、「青い瞳をした会長さん」桂三歩、「厩火事」林家花丸、「ろの二番(六尺棒)」桂文太、「隣の桜」桂三歩。
今日で田辺寄席参加は8回目、ちゃんと1時前に到着して座りやすく見やすい席を確保した。開口0番は文太さん「名人伝」で、名人とうたわれた噺家たちのことなどおもしろく語ってくれた。「池田の猪買い」はわたしが上方落語をはじめてLPレコードで聴いた噺のひとつで、“十三の渡しを渡って、三国の渡しを渡って”といつも真似をしている。若い雀五郎さんががんばった。三歩さんは早口言葉で笑わせ、聞き手を参加させてうまく笑いをとっていた。いままで聞いたなかでいちばん愛嬌がある人だ。花丸さんの「厩火事」は、髪結いの仕事にしている年上の女房が、好きでいっしょになった亭主に愛想をつかしつつ未練があるという矛盾した気持ちの噺である。“髪結いの亭主”というのは、このあたりから生まれた言葉かな。文太さんの「六尺棒」のうまい話しぶりは文句なしであった。遊び人の息子と堅い父親のやりとりと息子の要領のよさに笑った。
息子が夜遊びして帰ると雇い人でなく、父親が玄関にいて「うちには○○という息子がおりましたが、夜遊びが過ぎたので勘当しました。会ったらよろしく言っといてください」と言う。わたしは若いころよく父親にこの調子でやられた。「うちにもkumikoという娘がいましたが、夜遊びが過ぎるので勘当しました。会ったらよろしく言っといてください」と言いながら、怖い顔をして戸を開けてくれるのである。
一度ほんまに閉め出されたことがある。わたしは風呂場の窓へよじ登って、窓をはずして中に入った。大掃除のときに風呂場の窓を固定していなかったのを知っていたからだが、窓はその後、しっかり固定されてしまった。

2003.2.16


シンディ・シャーマン展(1996)


ロバート・メイプルソープ展で思い出したんだけど、3年後にもう一度滋賀県立近代美術館に行っている。1996年7月のシンディ・シャーマン展である。やはりニューヨークで活躍している先鋭な女性写真家の作品を集めた画期的な展覧会であった。こちらはおもしろかったのでカタログを買ってきた。いま見ているのだが70年代から80年代の作品が好きだ。
特に彼女自身が扮した映画の1シーンを切り取ったような作品がすごかった。タイトルは「Untitled Film Still」にナンバーがつけられているだけだが、1枚1枚から映画の1シーンが浮かび上がってくる。これはジャネット・リー、これはオードリー・ヘップバーン、これはジャンヌ・モローとこちらは映画のタイトルも思い出してうれしくなるが、その後には気味の悪い違和感がわき上がってくる。70年代のモノクロよりも80年代に入ってからのカラー作品のほうが不安感が増している。表情が決まっていて完成度が高いと言ったらいいのかな。その後は完成したものを壊す作業があり、80年代後半からはがらっと変わって名画の人物になっているが、展覧会でもここまで見たら飽きてきた。90年代半ばからの作品はどっちかというと嫌いである。

2003.2.15


ハラが立つやら、おかしいやら


金曜日は特にバスが遅れる日である。今日はその上に明日が15日(土曜日)というゴト払い(支払日である5と10のつく日のこと)の日だから、道路が渋滞し、その結果バスが遅れる。プールの帰り、2時38分のバスに乗るべくいつものように5分前にバス停に行った。ビジネスマンが1人待っているところへ女性が1人来た。バスは来ない。2時55分、待ちくたびれた女性がタクシーに乗った。3時に呑気そうなジイサンが1人やってきた。しばらくしてバスが来るのが向こうの方に見えたので、わたしは離れたところにいたビジネスマンに「バスが来ましたよ」と呼んであげた。次のバスは3時8分であるから約1台分待ったわけである。
そしたらジイサンがわたしの側へ来て「明日は雨でっせ」と言うのだ。わたしは空を見上げたけど、雨の感じはしない。天気予報で言うてたのかしらん。「そうですか、明日は雨ですか」とていねいに相手をした。そしたらそのジイサンは「バスが時間通りきましたがな、めっそないでっせ、こんなこと、ハハハ」だってさ。30分も立って待っていた人の気も知らず・・・もうめちゃくちゃアタマにきてなんか言うたろかと思ったときは、バスが目の前に止まっていた。ああ、しんど。

2003.2.14


ロバート・メイプルソープ展


行った報告ではなくてすみません。1月30日から2月11日まで大丸心斎橋店のミュージアムでロバート・メイプルソープ展があるのを、早くから知っていて楽しみにしていたのに、やっている期間にはころっと忘れていた。ちょうど仕事が混んでいたのと、新しい仕事の準備があったために外出どころではなかったんだけど、かなり残念。行こうと思ったら終わっていた。もっと長期間やっててほしかったなあ。
それで、以前行ったことを思い出して負け惜しみをする。滋賀県立近代美術館までロバート・メイプルソープ展を見に行ったのは1993年のことである。JRの瀬田まで行ってバスに乗るという遠出であった。メイプルソープのナマの写真をはじめて見たのだが、それはそれは美しくて、あまりにも美しいので、いつも美術展で買うカタログや絵はがきも買わなかった。イメージが濁りそうで。
緻密でエロチックな花のいろいろ、リサ・ライオン、パティ・スミスのヌード、同性愛的な男性の肖像など、いまもしっかりと思い出すことができる。セルフ・ポートレートもショックだった。
ニューヨークで活躍したロバート・メイプルソープ、1946年生まれ、1989年42歳でエイズで死す。

2003.2.13


イギリスの田舎─アントニー・バークリー「第二の銃声」


だいぶ前に1回読んだことがあるのだが、またイギリスの田舎の物語が読みたくなって出してきた。お客をを招いたのんびりした田舎の館で殺人事件が起こる話をはじめて読んだのは、A・A・ミルンの「赤い館の秘密」だった。あの日ギリンガムが赤い館にやってこなかったら完全犯罪になるところだったなあ、なんて思い出したら、また読みたくなった。図書室の本棚をこつこつ叩いて合図したり、地下道を走ったり…。
この本では探偵作家夫妻が農園を持っていて、親しい友人を招いて毎日遊んでいるのだが、退屈して殺人事件ごっこをすることにする。被害者になるのがスコット=ディヴィスという遊び人で、加害者役は真面目一方の独身者ピンカートンがすることになった。ところが芝居中にスコットは銃に撃たれた死体で発見される。スコットを殺したいと思っている人間はたくさんいる。従姉妹のアーモレルはスコットの相続人だが、放蕩による借金で大切な荘園を売り払ってしまいそうで心配している。ピンカートンはみんなの中で笑いものにされたことを恨んでいる。その他にも殺す動機がある人間がいろいろいるが、警察はピンカートンを容疑者として扱う。そこで助けを求め来てもらったのが、学校時代の友人で探偵として名をあげているシェリンガムである。
あっと驚く解決であるが、殺人方法などわたしはどうでもよくて、もっぱら田舎の生活を楽しんだ。ここの客たちがのんびり過ごせる陰にたくさんの召使いたちの労働があるわけだが、まあ、それはおいといて、ブルーベルの森で花を摘んだり、森や野原を散歩したり、兎を撃ったり、泳いだりと楽しい日々なのだ。もっともそれが退屈で殺人事件ごっこをするんだけど。
ピンカートンは親の遺産があって仕事を持たず、ロンドンのフラットで暮らしている独身者だが、こちこちの道徳観の持ち主である。アーモレルはモダンガールでピンカートンの鼻面を引きまわす。そのあたりを読むのも楽しい。(国書刊行会 2400円)

2003.2.12


やった〜 田辺寄席の手拭いもらったー


1月の田辺寄席は高座の他にぜんざいあり福引きありでにぎやかだった。ぜんざいはおいしく食べたけれど、福引きは全然あかんかった。1番も2番もいらない。3番の手拭いが欲しかったのに…。田辺寄席300回記念の緑・茶・黒の3色セットである。いつも舞台の左側の通り口にノレンにしてあるのだが、しぶい日本の色がとても素敵で欲しいなあと思っていた。
わたしは手拭いと風呂敷が好きで以前はよく使っていた。最初のころのマックを運ぶのに定番の緑色の唐草模様の風呂敷で包んでいたし、お弁当も風呂敷に包んで持って歩いていた。手拭いは布巾にしていたが、いいのは使うのがもったいなくて引き出しに溜めてある。最近は風呂敷を持つこともないのが残念である。きちんとした格好をして、小さなバッグの他に桃色のちりめんの風呂敷に菓子箱を包んで、片手で抱いて歩いてみたい。谷崎潤一郎か川端康成の世界やね。トートバッグやリュックになんてもつっこんでいるのに、へんなことを考えるものだ。
手拭いを欲しい気持ちが伝わったのか(実は遠回しに欲しがったのだが)、会報「寄合酒」といっしょに手拭い3本セットを送ってくださった。手拭いもいいが、巻いてあるのし紙が素敵である。「壽 三百回記念公演 田辺寄席」の文字の美しいこと。粋やわぁ。これは袋に入れたまま保存しとこう。

2003.2.11


サックス奏者MASAさんをテレビで見た


MASAさんは大阪出身のサックス奏者である。15年前に渡米し、ニューヨークに住んで演奏活動をしている。年に何回か大阪に来て演奏していて、今年は今月から各地で演奏しているが、3月には秋吉敏子さんといっしょにコンサートを開く予定がある。
わたしがMASAさんを知ったのは、去年の3月に大阪で女性だけのコンサートに行ったときで、その日の舞台を創り上げたバイタリティに感心し、演奏を聴いていまこんなジャズをやる人がいるんだと感動したのだった。
今日は新聞の休刊日なので、テレビでニュースを見ようと思ってNHKをつけたら、なんと画面に現れたのがMASAさんであった。11時からの「とっておき関西」という番組で、赤い服で愛らしい笑みを浮かべてMASAさんはアナウンサーの問いに答えていた。大阪の下町新世界に住み、釜が崎の焚き出しコンサートに出演したこともあるそうで、この辺りはニューヨークのハーレムによく似ていて暮らしやすいと言っていた。
また自分の音楽のルーツは日本の童謡とのことで、「故郷」を演奏したが、童謡のメロディからはじまった音がふるえてブルースになっていくところが、なんとも言えずよかった。それから「Blue MASA」という曲の哀愁あふれる演奏と歌にうたれた。
MASAさんのライブ予定は、http://www.geocities.com/masaband/ を見てください。

2003.2.10


アルプス電気のプリンタ


いつまでもつかと心配しながら使ってきたプリンターがついにダウンした。この1・2年はよろよろ状態で使っていた。まず紙が自動給紙できなくなって1枚ずつ差し込まねばならなくなった。重ねておくと全部滑り込んでしまう。それからインクリボンカセットを交換すると、まず動かない。作動するまでマシンの前後を押さえてスイッチを入れる。すぐ動くときがあり、10回も汗をかきながら押さえていることもあった。よくそれできれいなプリントができたいたものだ。文字がくっきりと出るのが気に入っていた。カラーもきれいである。インクリボンカセットが高いのが玉にキズだったが。
調べたらなんと1996年に買っているんですね。仕事では他のプリンターを使っていたし、一時はつないでなかったときもあるけど、最近はよく使っていた。それにしてもよくもったもんだ。「別冊宝島」のパソコン読本でお薦めのプリンターだったので、買って気にいったので人にも薦めた。みんなプリント状態は気に入ったが、インクカセットの高さには閉口していたっけ。
またアルプスにしようかとネットで調べたら、店頭販売は2000年に終わっていて、いまはネット販売のみらしい。根強いアルプスファンがいるのかも。Tシャツにプリントできるしね。
それで方向転換して他社のを買うことにした。2・3日中に買うつもりなのでまた報告するね。
それでっと、このページを読んでいるかたで、アルプスのプリンターを使っている人はいらっしゃるでしょうか? インクカセットが余っています。カラー3個パック(MDC-FLC3)、1個包装(MDC-FLCY、MDC-FLCC、MDC-FLCK)、合計6個で約3400円分あります。送料分の切手代は負担していただくということでお送りします。ご連絡をお待ちしてます。

2003.2.9


刑事がバッジを捨てるとき─「刑事キャレラ/10+1の追撃」


「シティ・オブ・ボーンズ」の後が気になる。ハリー・ボッシュ刑事は今後どうするのだろう。本の解説を読んだら次作はもうあって「Lost Light」が2003年とある。「シティ・オブ・ボーンズ」は2002年だからすごい早い翻訳なんだ。次の翻訳も早いんじゃないかな。やっぱりいまいちばん輝いているハードボイルド小説だもんね。
この本を読んでいて思い出したのが、いろんな小説や映画で警察官がバッジを捨てるときのシーンである。中でも印象に残っているのがジャン=ルイ・トランティニャンが刑事キャレラに扮した映画「刑事キャレラ/10+1の追撃」で、最後にバッジをはずして車の窓から捨てるところがなんともかっこよかった。
「刑事キャレラ/10+1の追撃」は1972年のフランス映画である。原作はアメリカのエド・マクベイン「87分署シリーズ」の中の1冊だが、舞台はニースだし、原作よりずっと文学的というかフランス的というか…という感じだった。超望遠消音ライフル22口径の弾丸が影なき殺人者から─と解説に書いてあって、なるほどそういうストーリーだったかと思い出した。
何回も見に通って、人にしゃべりまくった覚えがあり、何回もしゃべったおかげでそのシーンだけはいまもよく覚えている。キャレラが拳銃を持った右腕を上げてから真っ直ぐ伸ばすシーンは、そのかっこも真似して説明したものだ。そしてキャレラが捜査のためドミニク・サンダの家に行ったとき、夫人であるドミニクは広い家の奥から裸足で白いバスローブを着て現れる。優雅でセクシーでため息ものであった。
バッジを投げ捨てるジャン=ルイ・トランティニャン、かっこよかったなあ。ドミニク・サンダと共演の「暗殺の森」(1970)もよかったけど、好きなのは「狼は天使の匂い」(1972)だ。これはレーザーデスクを持っている。なんせ1955年から映画に出ている人だから、「華麗なる女銀行家」(1980)をサンケイホールに見に行ったときはもうオッサンやった。

2003.2.8


お水取りがすまんと…


今日の昼間はぽかぽかと暖かく、まるで春のような日射しであった。でもたまたまこういう日があっても3月のなかばまでは油断ができない。関西ではお水取りがすまんと春がこないというのが常識である。今日もプールで顔を合わせた人に「今日はぬくいね」と言ったら、「このままいけばええねんけど、そうはいかんやろなあ、お水取りがすまんとなあ」という返事。ほいほい、でました、これがこれから約1ヵ月間の関西の時候の常套句である。
しかし、いまやこの常識は通用しなくなりつつありそうで淋しいことである。先日20代の女性と話していたとき、ちょうどいまごろの季節に結婚が決まった知り合いのデートが奈良のお水取り見学だったと言ったら、「お水取りってなんですか」と聞かれてしまった。びっくりするがな、もぅ。大阪にいてお水取りを知らんとはなんたるこっちゃ…。伝統は途切れてしもたんかー。
奈良のお水取りに行ったことがなくても、東大寺でどんなことをする行事か知らんかっても、冬から春に季節が移っていくときにいくら暖かい日が続いても、この季節にはちゃんと冷え込むことで「お水取りがすまんとなぁ」になるのである。とは言え、わたしも若いときは年上の人が言うてるのを聞くと「またー」とか「ださー」とか思ったのだから、えらそうなことは言えない。

2003.2.7


マイクル・コナリー「シティ・オブ・ボーンズ」


やっと読み終わった。とびとびの時間のうえに、途中でしんどくなって絵本や児童書に向かったりしたもので、ますます日にちがかかってしまった。ハリー・ボッシュ刑事が出てくるだけでしんどくなってしまうのが困りもの。
ハリウッドの丘陵地帯で散歩中の犬が骨をくわえてもどってきた。飼い主の医者が人骨と推定し届け出る。ハリウッド署のボッシュ刑事が殺人事件として捜査にあたると、他の部分の骨や遺留品の残骸が見つかる。その骨は12歳くらいの少年のもので、20年前に頭を殴られて死んだことがわかる。その他にも虐待を受けた跡がみられた。
ボッシュは捜査中に知り合った新人警官のジュリア・プレーシャーと気があい、愛し合うようになる。彼女は警察では新人であるが元弁護士で暖かい女性である。こんないい恋人ができてよかったと読者がほっとする間もなく悲劇が起こる。ボッシュってなんか山中鹿之助みたいなオトコだ。「我に艱難辛苦を与えたまえ」と神に祈っているのではあるまいか(笑)。
事件がマスコミに報じられると、弟かもしれないという届け出があった。調べていくうちに薄倖な少年の姿が浮かび上がる。父、母、姉がそれぞればらばらに会うこともなく生きている一家。ボッシュは自分の生い立ちを思い出す。
犯人探しは二転三転する。早くかたをつけてしまいたい警察上部の意志に反して、真実を掘り起こすボッシュに上司のグレイス・ピレッツ警部補は理解を示すが、ずっと上のロサンゼルス市警副本部長からは睨まれどうしである。
いままで警察の仕事を生き甲斐にしてきたから、ぎりぎりまでいった後で黙ってすましたりしたこともあった。今度はいままで以上の副本部長からの圧力がかかる。ボッシュはもう後にはひかない。(早川書房 1900円+税)

2003.2.6


冬がなつかしい─絵本「Winter Magic」


寒さの中でも立春ともなると春の足音が聞こえてくるような気がする。おかしなもので、そうなると冬と別れるのがなんとなく淋しい。なにも冬を楽しんでなかったんじゃやないかと悔しい。ええかげんなことである。
仕事が追いかけてきて、ボランティアのホームページ仕事も追いかけてくる日常では、どこへ行くヒマもあるわけないじゃん。足も悪いのだ。そこで例によって冬を楽しむ絵本を出してきた。なんとつつましい日常であろうか(笑)。
「Winter Magic」(1985 ドイツ 英語版)はずいぶん前に買った洋書絵本である。農場だろうか、家の外は見渡す限り雪である。ある夜ピーターという男の子が猫のモンティと窓から外を眺めているとモンティが言う「ボクの背中に乗りなよ、冬の魔術を見に行こう」。ピーターが猫の背中に乗ると、体が小さくなっている。雪原を走って森へ入り、木の洞の中を覗いたりネズミの巣穴を覗いたりする。そして雪明かりの中を走るキツネやウサギを見る。鳥たちとも話をする。つららの下がったところに木々を通して光があたっている幻想的な風景も見る。
明るい光が射してきたころピーターとモンティは家に還る。お母さんは温かいスープを飲ませてくれる。今日はクリスマス、テーブルを囲む家族がいてピーターの椅子は猫のモンティに半分占領されている。その夜ピーターは森でモンティや動物たちと踊っている夢を見る。目が覚めて居間へいくとモンティが窓から入る雪明かりの中にいる。

2003.2.5


立春


仕事中はラジオを聴きながらのときもあるし、CDを聴いているときもあり、またなんの音も無いときがある。この2・3日はFM802を聴いている。1週間も聴くと飽きてくるんやけどね。
昨日まではDJたちが節分のことばかりしゃべっていた。だれもが太巻き寿司の丸かじりのことばっかり。関西の風習というが、わたしはやったことがない。太巻き寿司は好きやけど、ちゃんと切って食べるほうがおいしいと思う。
今日からはバレンタインデー一色である。これは約2週間続くわけだ。わたしは義理チョコを2・3回くらいはしたことがある。数年前に気前よく本をくれる男性がいて、お返しのつもりであげたら、ホワイトデーに白バラが箱入りでとどいた。あれにはまいったなあ。あんまり思い出したくない記憶が出てきてしまっただ。
さて立春といってもまだまだ寒い。先週の野菜パックにナバナが入っていたのを冷蔵庫から出したら、ツボミが黄色くなっていた。先を短く切って小さな瓶にさしたら気分が春!

2003.2.4


カルルス温泉


昨日の続き・・・古平→雷電温泉から小樽へもどって、小樽の町をあちこちした。はじめておでん屋でタラの白子(当地ではキクという)を食べた。札幌にも行った。まだ蒸気機関車が時間によって走っていたので、小樽から札幌までそれに乗った。大通り公園や時計台など一通りまわってコージーコーナーという喫茶店に入った。なんで喫茶店の名前を覚えているんだろ?
それから登別に行ってクマ牧場を見て硫黄が煙を出しているところまで行き、バスでカルルス温泉へ行った。11月なのにバスを降りると雪が積もっていてびっくりした。小樽でも雪が舞っていたが、ここはすでに積もっているんだから。同じバスに乗っていた東京からの一人旅の女性がハイヒールで困っていたので、手をつないで温泉宿まで行ったのだが、泊まるところが違っていてそれきりとなった。なんか気がかり…。小さな宿でさわやかな温泉だった。
はじめて行った北海道は南のほうだけだったが大感激だった。帰りは夜札幌を発って夜中過ぎて青森に着いた。青函連絡船は海が荒れていて船が揺れて気分の悪くなった人が続出していたように覚えている。いまは青函連絡船も歌謡曲に残るだけだ。夜が明けてから青森で大阪行きの列車「白鳥」に乗った。夜の8時に大阪に着くまですごく長かった。

2003.2.3


波の花


テレビの天気予報を見ていたら、荒れた日本海にうち寄せる荒波が岩に泡を残して引いていき、その泡が風で飛び散っている様子が映し出されていた。それを波の花というそうな。寒そうだけれど美しい。わたしも波の花を見たことがあったよなあ、と今日は30年も前のことを思い出した。
70年代のはじめ、11月の終わりに相棒と北海道へ行った。「日本海」という夜行列車の寝台をとり、翌日夕方に青函連絡船に乗った。青森も函館も吹雪いていた。夜になって小樽に到着。小樽を基地にして積丹半島の古平(ふるびら)へ行き、余市までもどってニッカの工場を見て雷電温泉へ行った。
古平は詩人吉田一穂の故郷である。どうしても古平の海を見たいと思って、余市から積丹半島を行くバスに乗った。古平はなにもない漁村だった。海岸に船が引き上げられていて、カラスがたくさんとまっていた。長いこと寒さの中で立って海を眺めてきた。
寒さしのぎと余市へもどるバスの時間待ちに食堂に入った。ラーメンでも食べようと思ったが、寒かったのでお酒をもらった。なにか肴をと頼んだら出てきたのは丼鉢山盛りのナマの甘エビであった。食べた、うまかった。その後も北海道でカニやらなにやら食べたが、この甘エビほど旨かったものはない。
そうそう、波の花は雷電海岸で見たのだった。雷電という名前が現しているように、ごつごつとした岩の海岸で、その岩に波がぶつかってできた泡が強風に吹き飛んでいた。あれが波の花だったんだ。

2003.2.2


アリスン・アトリー「氷の花たば」から「木こりの娘」


「木こりの娘」を読みだしたらすぐ、ネルヴァルの「オーレリア」を思い出した。うろ覚えなんだけど、たしか物語のはじめに、レース編みにたけた村の娘たちが町の機織り工場で働くようになり、繊細な編み物をする娘がいなくなったことが書かれていた。こうして産業革命は村の娘たちもまきこんでいったのだろう。
木こりの娘チェリー・ブロッサムは、森の中の家から村の学校へ行き、夜は母親から縫い物を習う。そして学校を卒業すると、町の人たちの服を仕立てるようになる。まだこうして暮らせた時代、森には妖精も住んでいた。
ある日チェリーが夜なべをしていると金色のクマが現れる。水とパンをあげるとクマはおいしそうに食べて、イラクサで服を縫ってほしいと頼む。森にはお城の跡のようなところがあり、イラクサがいっぱい生えていたので、それを採って服を縫う。次にサクラの花で自分の服を縫うように言われて、城跡のサクラの花をたくさん拾ってドレスを縫ってしまっておく。イラクサの服とサクラのドレスを、町にいるおばあさんには見せようと思って、得意先回りをするときに持っていくが、ドレスだけを見せる。おばあさんは昔夢の中でこういうドレスをつくるように言われたことあったが縫わなかった、縫っていたら人生が変わっていたはずだと言う。チェリーは帰り道で猟師に追いかけられたクマと出会う。いろいろあって、最後にはクマは人間のオトコになる。魔法をかけられていたのだ。
この本の解説を読むと(わたしは作家の伝記が好きなのに、アトリーに関してはなぜか無関心だった)、アトリーの人生がすごく重いものであったことがわかった。農家の娘であったアトリーは森を抜けて通った村の学校で優等生であり、科学を志して奨学金で中学校、マンチェスター大学、そしてケンブリッジ大学までも行くことになる。なのに突如結婚して子どもができ幸せな家庭を持ったところが夫が自殺する。それからアトリーは91歳までたくさんの物語を書いた。(岩波少年文庫 600円)

2003.2.1

 

写真:田辺寄席300回記念(平成11年2月19日)手拭い3色セット

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