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映画で夢見る、映画で目覚める 2

ジョン・カサヴェテスの視線

杉谷久美子

 クリント・イーストウッド製作・監督・主演の最新作『目撃』を見て、がくっとなった。そりゃ安心して見られるし、第一級の娯楽作という評価はあたっている。しかし、クリント・イーストウッドの今までの映画と女性の扱いが違う。『ガントレット』のソンドラ・ロックや『タイトロープ』のジュヌビエーヴ・ビジョルドのようにクリント・イーストウッドの映画ではちゃんと自分で自分の身を守る女性がいた。この映画では、仕事のできる女性であることは検事という地位でわかるけれど、父親が守ってやる娘であることばかり強調されていた。最後のシーンでも女性を守る役を、父親から恋人にゆずるみたいで情けなかった。時代の空気を察するのがうまいクリント・イーストウッドが、いま読みとっているのは世の中が保守化しつつあることの証明か、それとも本人が保守化したのか、いまのハリウッド映画の流れに「おれかて家族愛ものできるで」とやっただけなのか、昔からの熱烈ファンとしてはとても気になる。しっかりしてくれえ。
 というように、わたしはどんな映画を見ても1週間や10日はその映画について、ああでもない、こうでもないと頭をひねくりまわしている。映画に関する本も読む映画ファンである。

 実生活がおもしろすぎて、映画を見る気持ちにならなかったときや、また、映画館に行くお金と時間がない時代をはさんではいるが、映画はわたしの人生の一部だった。人生と映画のしあわせな一致が60〜70年代のヨーロッパ映画だった。
 なかでも影響を受けたのはジャン・リュック・ゴダール。ジーン・セバーグが魅力の『勝手にしやがれ』からはじまってほとんど見た。好きなのは『女と男のいる舗道』かな。この映画のアンナ・カリーナがいちばん好き。熱に浮かされたような時代だった1969年に見た『中国女』は京都で1回だけ上映されるのを知って仕事をさぼって出かけた。この映画でアタマをガーンとなぐられたような気がした。アンヌ・ヴィアゼムスキーは最高だった。現実を切り裂いたような『ウイーク・エンド』もよかった。なのに『東風』は映画を見始めて以来はじめて居眠りをしたというわたしにとっては記録的な映画だ。それ以来、ゴダール熱は醒めたのだが、最近ビデオで『中国女』を手に入れて、感慨深いものがあった。

 フランソワ・トリュフォー『突然炎のごとく』もよかった。3年ほど前パラダイス・シネマのレイトショーで再見したときもよかった。ミケランジェロ・アントニオーニはなにが一番好きだろう。『夜』か、『太陽はひとりぼっち』か。ジャンヌ・モロー、モニカ・ヴィッティのものうい美しさ。ルキノ・ビスコンティは『山猫』と『夏の嵐』と『ルードヴィヒ』。『苦い米』の野性的な若きシルバーナ・マンガーノが、ビスコンティの作品にろうたけた姿で現れたときはびっくりした。アリダ・バリはいまもあこがれだ。ロミー・シュナイダーの高貴な美しさ。フェデリコ・フェリーニは『甘い生活』、『8 1/2』。マルチェロ・マストロヤンニはもちろんいいけど、アヌーク・エーメ、アニタ・エクバーグたち女性が好き。ベルナルド・ベルトリッチはなんといっても『暗殺の森』と『ラストタンゴ・イン・パリ』。ドミニク・サンダもマリー・シュナイダーもヨーロッパの洗練て感じ。これに数年前ビデオでみたジャン・ルノアールを加えたい。『ゲームの規則』、『黄金の馬車』。

 最近はパソコンを使う時間が長くなり、映画への興味は少し薄れていた。映画に行くより、パソコンでメールを書いたりインターネットをのぞいたりするほうが楽しい、と思うようになっていた。
 ところへもう一度、映画で生涯で2度目のドカーンがきた。この正月にビデオでみたジョン・カサヴェテスである。『グロリア』(1980)を封切りでみたときはぜんぜん知らなくて、ちょっと変わったアクション映画という感じだったが、忘れられなかった。監督のカサヴェテスと主演のジーナ・ローランズはずっと記憶の中にあった。その後、雑誌『Switch』のジョン・カサヴェテス特集、ジーナ・ローランズ特集を読んで学習、ビデオで『ラヴ・ストリームス』(1984)『アメリカの影』(1959)を見た。いまから4・5年前のことだ。もちろんよかったし、もっと見たい、と思いながら、パソコンに明け暮れていた。

 この正月は落ち着いて見よう、と決意(オーバーやなあ)してビデオを4本借りた。『アメリカの影』は黒人の一家で兄は売れないミュージシャン。仲の良いきょうだいだ。末の妹は白人にしか見えない黒人で白人の男性とつきあいはじめた。その白人が一家を訪れたとき…。まさに「アメリカの影」を描いている。『こわれゆく女』(1975)はジーナ・ローランズ演じる精神のバランスがうまくとれない妻が、日常生活の中ですこしの狂いからまさに「こわれて」いく、過程を描いている。最初のシーンで、夫のピーター・フォークが同僚に「家内は正常な女なんだ」と何度も言うところが、これからの展開を暗示してどきどきした。
 『チャイニーズ・ブッキーを殺した男』(1978)、ベン・ギャザラはストリップ・クラブを経営する男。女好きでばくち好き、ばくちに負けて借金のかたにマフィアに中国人を殺せと命令される。あれよあれよと言う間に映画は展開して、中国人は殺すが自分も撃たれて、最後は路上に血を流しながら立っている。しょうもない男やけど、命がけのナルシズムをしょうもない男がやってみせた、ことに息をのんだ。
 『オープニング・ナイト』(1978)はジーナ・ローランズの人気女優が芝居の初日に至るまでのさまざまな困難を描いている。ジョン・カサヴェテス自身も出演していて、ふたりで演じる舞台はユーモラスだが、そこにいたる女優の精神状態は苦しい。お酒を飲むシーンは、ほんとにはらはらさせられた。よれよれに酔っぱらっている彼女が舞台に出るところは、女優ものとかハリウッド的定番みたいなのだけれど、精神的な苦しさの描き方が全然違う。

 この4本を集中して見て感じたのは、冷たい、醒めた視線。以前あんなに好ましかったヨーロッパ映画熱中の時代は否定するわけではないが、牧歌的だったなあ、ということ。もうあの映画たちは回想の中にあって、わたしの生きているいまのものではない。ジョン・カサヴェテスの作品で、わたしの新しい映画の時代がはじまったという気がしている。

1997年7月

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