VIC FAN CLUB
VIC FAN CLUB: ESSAY
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カバンについて

下岡 加代子
Kayoko Shimooka

他人の部屋や本棚や、冷蔵庫の中身と同様、私の興味を引きつけてやまないのが、他人の持ってる鞄だ。
 大人になった今でも、歯ブラシやヘアピンや、いろんな味のするシロップや、体温でなくて行動を評価する体温計や、果ては折りたたみベッドまで、普通のモノから変なモノまで飛び出してくるメアリー・ポピンズの絨毯製のバッグがいったいどういう仕組みなのか、ジェインやマイケルと同じように知りたくてたまらなくなる。まるでドラえもんの四次元ポケット!
 そんな奇妙な鞄でなくても、普通の人の持つ鞄も好きだ。例えば地下鉄で隣の席に座った女の子がスケジュール帳を取り出せば、自然に私の目はその鞄の中身をサーチしている。サンリオのポーチやルイ・ヴィトンのパース…ま、そんなには見えないけどね。
 卑しい性格? ホント、そうだ。けれど他人の生活の一部を覗き見るのは、単純に言って、とても楽しい。女性誌でよく、読者の持ち物自慢が特集されているけれど、同じようにそれが楽しい人が多いからだろう。覗き趣味は誰にでもある。よっぽどプライバシー尊重を遵守してる変人でない限り。 けれど、男が持つ鞄には、さほど興味はない。どうせブリーフケースの中には書類とケータイしか入ってないんだし。以前はカチッとしたケースの中から少年ジャンプが出てきて度肝を抜かれた時もあったけど、今やありふれた普通のことだ。強力なエロマンガだったら多少は興味があるけれど。男子大学生の持ってるリュックだって、教科書やウォークマンやレンタルCDくらいだろう。女子大学生が持つバッグほど面白くはない。

 どうして女はいろんなモノを鞄に入れて持ち歩くんだろう?
 ここで友人やら街角の女性をリサーチして、どんな鞄を持ってるのか、どんなモノを入れてるのか、なぜそんなモノを持ち歩いてるのか尋ねるといいんだろうけど、めんどくさいので(笑)、私自身を俎上に乗せよう。まず我が身を晒せ。

 高校は私立のお嬢さんお坊ちゃん学校だったので、クラスメイトの多くはきれいなサテンのポーチやルイ・ヴィトンの財布、お兄さんの婚約者から貰ったシャネルのネイルエナメルなんかを自慢し合っていた。私の通学鞄には河出文庫やエロ本やタバコしかなく、およそ友だちに見せられるようなものではなかった。きれいで上等なものを持ってる彼女たちが羨ましかったが、私も私なりに虚勢を張っていた。彼女たちは甘く爽やかなコロンの匂い、私の制服は安いインドのお香の煙が染みついていた。当時は私こそカッコいいと思っていたが、さぞ臭かったろうと思う。
 大学の頃も、1・2回生は高校の延長のようなものだったが、3・4回生になると飽きてきて「JJ」などで読んで、女の子はどんなものを持つべきか勉強したものだ。趣味がいまひとつ合わなかったので結局勉強しただけだったが。4回生の時は卒論用の文献やフロッピー、ノートやメモしか鞄に入ってなかった。厳しく、口も性格も悪い助教授のゼミに入ってしまったので、生活すべてを卒論に捧げていたからだ。4年間通して使っていたゴルチェの黒い大きなナイロンバッグが、本や辞書でパンパンに膨らんでヨレヨレになった。ごめんね、ジャンポール。

 そして現在。就職して4年目、一人暮らし歴6年目、鞄は10個あまりに増えた。
 いちばん上等なのが、両親から20歳の誕生日に貰ったイタリア製のダークブラウンの台形型のハンドバッグ。これは気を張る相手―主に親戚―を訪ねたり、結婚式や法事に行く時に使う。財布、タバコとライター、口紅と手鏡、ハンカチ、ごく薄い文庫本(岡倉天心の『茶の本』や谷崎潤一郎の『人魚の嘆き・魔術師』が大きさも良いし非日常の雰囲気も盛り上げてくれるが、おかげで読み通したことがない)、数珠、浄土真宗のお経の本をギュウギュウに詰め込んでも、堅実でエレガントな雰囲気を保ってくれる。
 それから、ニタニ・ユリエのグレーのスウェードの半月型の手提げバッグ。ニタニ・ユリエ、というのが嫌だが、一目惚れは素性を知らないからこそ起こるものなのだ。ありがたいことにブランドネームはバッグの内側についている。すっきりしたラインのシンプルなデザインで、外見はたいへん気に入ってるのだが、一度も使ったことがない。ジッパーがやたら固くて、モノを出したり入れたりするたびに腕に浅いひっかき傷ができ、持ち手もスウェードのため汚れやすそうだからだ。冬のお出かけに使いたいと思っているが、もう3度も冬眠している。他の季節にも眠っている。
 また、ベージュの麻のキャンバス地の、ヌメ革で縁取りしたカチッとした肩掛けバッグも、スウェードのと同じ運命を辿っている。これら2つのバッグを買った頃は「ヴァンテーヌ」愛読者だったのだ。この雑誌で言うところの“カジュアル”は、私にとっての“よそいき”だと気付くのに2年位かかった。
 ラルフ・ローレンの大きなヌメ革の四角いトートバッグも、重たいので殆ど使わない。ロサンゼルスに行った時、嬉しくて衝動買いしたのだ。旅先でアホなことをするな、という戒めとして存在している。秋のピクニックには良さそうだが、秋にピクニックなど未だ曾てしたことがない。
 黒いナイロンの四角いカール・ラガーフェルドの肩掛け鞄は、就職した頃に毎日使った。B4サイズなので書類に便利だし、イニシャルのKLとシンボルマークの扇が黒い刺繍で大きく、シンプルなのにゴージャス感もある。さんざん使って、今は休憩中。

 この2・3年はトートバッグが好きになり、普段の仕事や買い物にはいつも、底が四角くマチが三角のエルベ・シャプリエ(とそのコピー)のトートを使っている。書類は入れにくいが、最近は書類を持ち歩かなくなったし、服装がたいていジーンズやコットンのストレートパンツなどカジュアル系だからだ。トートはたくさん入ってしかも割合オシャレにも見える。底とジッパーの部分が本体と別の色で、きれいな2色の組み合わせも好きだ。ただ、ある程度の量が入っていないと形が整わないし、また重すぎると形が崩れてしまう。トートを初めて買った頃はそういう外見も気にしていたが、今はもう気を使っていない。シンプル・シックなパリジェンヌ気分になれるが、用途としては信玄袋とさして変わりはないのである。紺×グレーとベージュ×紺、ブルー×エメラルドグリーン、白地にブルーのギンガムチェックは手提げ、白×ブルーと黒×ベージュは肩掛け。白いキャンバス地で底と手提げ部分が赤い、しっかりしたL.L.ビーンのコピーもある。
それから、DKNYのコロンと四角い、柔らかい革の黒い肩掛け鞄。DKNYが梅田のナビオ阪急のザ・ギンザに入った時に買った(だからずいぶん前になる)。ジッパーの引っ張る部分が取れてしまい、不便な上に外見上DKNYという文字を誇示できなくなってしまったが、便利なのでよく使っている。
 最後に、カーキ色のナイロン地の肩掛けバッグ。これは被災した友人と一緒にバーゲンに行った時に買った。彼女はその春から専門学校の非常勤講師を始めることになったので、ブラウスや鞄などをお祝いにプレゼントしたのだ。同じブランド(だが名もなきメーカー)のよく似たものだが、彼女のは茶色い半月型で、私のは四角い。金色の飾りがお揃いで、しゃれた感じで、よく使っている。

 今は3つのバッグ――白×ブルーの肩掛けトート、DKNY、カーキ色――を、着る服の色に合わせて順繰りに使っている。いくらたくさん持っていても、毎日使うことに耐えられる鞄は少ない。気分に合わせて変えればいいんだろうけど、そんなに毎日コロコロ気分が変わるわけでもないし、日常生活など単調なものだ。多少なら服で変化をつけられるのだし。
 この3つの鞄に入れているものは、まずタバコとライター。口紅数本とマスカラ、香水、鏡や目薬、銀行の届け出印などが入った黒いザ・ギンザのポーチ。生理用品を入れてある、リボンを組み合わせたポーチは伯母さんから貰ったもの。赤いマリ・クレールの手帳。モスキーノのハート型にキルティングした財布。銀行の通帳や賃貸契約書、健康保険証、年金手帳、パソコンの保証書、その他あらゆる重要書類を詰め込んだ、SMAPのビデオのおまけについていたビニールケース。これは震災以来、持ち歩くようになった。それから、本。今は講談社文庫のB.M.キャンベル『ガラスの壁』を通勤中に読んでいる。点字を書くための点字版と点筆、『点訳のてびき』、点字用紙を入れたA4サイズのケース。点訳する本は、今は町田康の『くっすん大黒』。携帯電話。お弁当。
 引ったくられると僅かな全財産が危うくなるが、まぁ、肩掛けなので大丈夫だろう。鞄を替えるにしても、出かける直前に内容をガバッと移し替えるだけだから、楽なものだ。
 エレガントな小さい革のハンドバッグは、財布を縦にしたり横にしたりして上手くモノを納めるのに苦労するし、朝はそんな余裕はなく、何よりも服に合わないし、私が持ち歩きたいものが全部は入らないだろうし、要するに生活スタイルに合わないのだ。

 私自身の鞄について長々と喋ったが、私の鞄は私の生活全体と切り離すことができない。鞄とその中身は、私そのものなのだ。鞄なしで出歩くなど、私には考えられない。それは私だけでなく、たいていの女が思っていることだろう。
 男はこんなことを思うだろうか。想像で言うのもなんだが、男にとってはどうでもいいことに違いない。書類の入る大きな鞄と、小さな持ち手のない革製のポーチ、場合によってはリュック。この3種類しか思いつかない。中身も前述したように、仕事の書類や財布、時代小説や実用書の文庫くらいではないだろうか。ダンディな方は老舗のこだわりの逸品を何かしら持ち歩いておられるかもしれないが…。それに背広や男物の上着は、ポケットに何でも入れられる。手ぶらでいても違和感がない。

 反対に、女が手ぶらで街にいたら? なんだか妙な感じがする。
 ナンシー・ニューハウス編『ハーズ HERS −‘80年代に女が考えたこと』(1989年、文藝春秋)に収められたコラム「大荷(だいに)の性」で、レティ・コティン・ポグレビンは、女は男に比べてはるかに多くの荷物を持っている――ブリーフケース、買い物袋、紙おむつ、赤ちゃん――のに、男は何も持たない、持っているとすれば仕事か遊びに関係する荷物が多い、と指摘する。荷物を持つことはセックス・アピールを損なわせ、威厳を傷つけ、責任を負わせられる。つまり、女は荷物を持たされることで抑圧されてきた、男は肉体的にも精神的にも荷物を持たず自由である、と。

90年代も半ばを過ぎた現在の日本では、特に若いカップルなら、女が男に買い物袋を持つように言えるだろうし、男も進んで荷物をもつ人が多いように思う(そういやカバン持ち男ってのが話題になったなぁ)。だからこの問題は減少しているように思えるが、確かに赤ちゃんを含めた大荷物を持つ人は女であることが多い。ポグレビンが言うように歴史的・文化的に荷物を持ってきたから、女は荷物を持つことが当たり前で、また何かを持っていないと不安になるように脳細胞や遺伝子に刷り込まれてでもいるんだろうか。
 けれど私は、たとえ財布やハンカチ、口紅やその他諸々が入るような大きなポケットがあらゆる婦人服に付くようになったとしても、男のようにそこにモノを詰め込みたくない。服の形が崩れてしまうし、何よりもやはり、鞄を持ち歩きたい。塩野七生が『男たちへ』(文春文庫)で述べた意見――「女にとってのハンドバッグは、女の心の、そして肉体の一部なのである」、「なにが入っているかは問題ではない。もち歩くという行為自体が、意味をもつのである」、「大きなポケットがいくつもついている服で、実用小物を入れる場所には不足しなくても、女はバッグをもちたがる。なにも手にしていないと、大切なものが欠けていることを、無意識にしてもわかっている証拠である」――に、まったく賛成する。
 ただ私は塩野七生のようにエレガンスを極めた女でもなく、「(ハンドバッグは)私の生に対する情熱の証し」と言うにはあまりにも実用的すぎる肩掛け鞄なので比較するのもおかしいかもしれないが。ヨレヨレのナイロンバッグが生に対する情熱の証しじゃあ、ねぇ…。

 この二人のちょうど間にあるのが、マレーネ・ディートリッヒのこの言葉。
 「女性のハンドバッグにはすべて奢侈税をかけるべきだ、というような男性は頭がどうかしているにちがいない。そんな人は来世にはワニに生まれ変わって、それこそぜいたくなバッグとなって死ぬことでしょう。あるいはまた、クリスマスどきの混雑したデパートやスーパーマーケットを、子どもを引きつれ、腕にも赤ちゃんを抱きかかえ、空いたもうひとつの手にはお金や鍵、買い物のリスト、身分証明書、ハンカチ、子供たちの手袋などをいっぱい握ってうろつく女性に生まれ変わるかもしれない。そのときにやっとおわかりでしょうね」(『ディートリッヒのABC』、1989年、フィルムアート社。「ハンドバッグ」の項を全文引用)。
 メアリー・ポピンズが持ってるような、何でも入ってエレガントに見える鞄があったらいいのになぁ。そう、彼女の鞄も彼女自身を表している――普通のようで普通でない、ナニゲに不思議なことをする、太陽王に惚れられてるのに木曜の休みにマッチ売りとデートするのを楽しみにしてる、そんな彼女を。

 さてさて、我らがヴィクはどんな鞄を持ってるんだろうか。金融犯罪の調査の打ち合わせには貫禄があるように見えるブリーフケースを持っていくだろうし、家にいると危ないからロティのとこに泊まりに行くときはキャンバスバッグ、友だちとのバスケや野球の試合にはスポーツバッグ、パーティー用の小さなバッグ。けど、車があるし、ピーコートにピーナツバターサンドを入れちゃうし、私立探偵許可証はジーンズのポケット、暴れるときも(笑)ジーンズにスミス&ウェッスン38口径を押し込むし。肉体的にも精神的にも自由だし、必要なら鞄を持つ、という感じだろうか。けれど、鞄を買うときは情熱をもって選ぶだろうと思う。そして、汚れようがなにしようが、さほど気にしない。大荷物を持つことも厭わないだろうし、手ぶらでも気にならない。そういう人だろう。
皆さんの鞄は?

1997年7月

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