こども診療所だより 復刊第22号2007年12月24日

小林はるよ

 私は今、長野県側の浅間山麓で、草との闘いに励む毎日ですが、定年までの仕事は「ことばの指導」でした。意図してではありませんが、私は、医療機関、福祉施設、学校、この3つの現場を、仕事場として経験しました。病院というところは、産まれたばかりの子どもから来るところ、そして学校は中学生まで来ていました。そしてなかには、成人した後にもなんらかの形で連絡をくださる方があります。結果として、さまざまな子どもたちの長い人生の軌跡を知ることになりました。それは、お母さんたちの人生の軌跡を知ることでもありました。

 私自身も仕事をしながら子どもを育て、親の喜び、親の苦悩を、人並み程度ではありますが、体験してきました。ここは標高1000m、白い雲が近いところ、なんだか、だんだんと天が近づいてきたような・・・でも、天が近づいてきたということは、来し方が見晴らせるということでもあります。自分自身、家族や親戚、友人、知人、仕事の上で出会った大勢の、さまざまな人々、子どもたち、そして本や新聞などで目にするだけの人々の来し方、生き方、が見えてきます。

 そんな今、ため息とともに思うことは、若いとき、周囲の評価が高かった人は、総じて「先行きがわるい」ということです。美しい、成績がいい、性格がいい、なにかが抜群に上手、そんな人たちは身近なところからテレビに映るところまで、さまざまな度合い、さまざまな距離にたくさんいて、そんな美点を持たないと自覚する人間の、憧れの的です。愛され、敬われ、身近な人々に、嫉妬、敗北感、劣等感を味わわせたであろう人々が、中年にさしかかるころになると、いわば「失速」しはじめる、そうした例を少なからず、見ました(鬱、引きこもり、家族との不和などなど)。

 「美人薄命」、このごろあまり聞きませんが、そんな言葉がありました。若いころは、神に愛される人々は早く召されるというから、そんなものかと思っていました。美人にはなりたいけれど、薄命はまずい・・・でも今ではちょっと違って考えています。美人は若いときには愛され、ちやほやされ、愛される努力、評価されるための努力をしないでもすみます。けれども美貌も含め、若い人のきわだった美点は、生まれながらのもの、労さずして得たもの、若さとともにあるもの、です。いつのまにか、若い日の輝きは失われ、注目を浴びたり、褒められたりしなくなります。

 でも、そうした人々にとっては、自分が輝きを失ってきた事実を認めることは、とても難しいことなのでしょう。自分を認めない周囲が不当だ、運(相手)が悪かった、時代が変わった、などなど、評価が低くなってきた原因を、自分以外に帰して、不満や怒りを抱えて暮らすことになるのではないでしょうか。生まれながらに恵まれた人々にとっては、認められよう、評価されようという努力は、しばしば、屈辱的でさえあるようです。周囲の状況が変わることを待って手をこまねいているうちに、時が経ち、不満や怒りが、心身を蝕む悪しきストレスになり、健康を害する結果につながります。

 そうした人々の例は、子どものとき、若いときの様子からその人の未来を予測することの愚かさを、教えてくれます。人の未来は、予測することができないものだということを教えてくれます。それは、まだないもの、これから形作られていくものです。他より優れているとみえようと、その反対に、遅れている、欠けているとみえようと、若いとき、まして幼いときの様子は、その人の未来について、なにも語っていません。未来を予測して、喜んだり、誇ったりすることも、その反対に、不満に思ったり悲観したりすることも、ほんとうは無意味なことです。「しないですめばそれに超したことはない」ことです。

 子どもの未来が、親の身分や職業では決まらず、不確定なこの時代、親は子どもの未来について早く安心の証拠を確保したいと思いがちです。子どもの発達、成長を他と比較して、一喜一憂しがちです。若い親だった私も一喜一憂した一人でした。自身の未来も不確定な、現代の若い親が、我が子の成長の度合いに一喜一憂することは無理もないことです。我が子に不満だったり、引け目を感じたりする気持ちは、じっさいにそうした現実があれば、やむをえないものです。それに、親に不満を持たれるということは、子どもにとって人生最初の挫折には違いありませんが、「若いときの苦労は買ってでもせよ」という、自立にとってどうやら不可欠な挫折でもあるのかもしれません。

 けれども、心の隅にはとめておいてください。子どもの未来は、親にも誰にも、予測できないもの、予測してはならないものであることを。親の自慢の子どもが、とりかえしのつかない年齢になって挫折することがあり、親の失望を買っていた、挫折続きの子どもに、豊かな人生が開けることがあることを。そして、途中経過がどうであろうと、「終わりよければすべてよし」、それぞれに味わい深い、本人にとって満足な人生は、親と子で、これから形づくっていけるものであることを。


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