こども診療所だより 復刊第22号2007年12月24日発行

モンゴルに黒板!?

梅村 浄

 こども診療所を開業する前、私は旧保谷市にあった一二三学園で、子どもたちの健康管理の仕事をしていました。一二三学園は、1958年、重度肢体不自由児のための未認可介護施設として始まりました。医学部の先輩である和田博夫医師が「重症の子ども達の為に、地域で生活できる場を作ろう。規則でがんじがらめに縛らなくてもすむ、小さくてアットホームな場所を」との考えで作られました。当時、重症心身障害児は学齢期になっても就学免除を申し出て、在宅で親と暮らすか、1960年代に入って作られた大規模施設に入所する時代でした。

 十人前後の子ども達が、ほぼ同じ人数の若い介護者と一緒に、木造二階建てのアパートで共同生活していました。私と数歳しか年の違わない園生もいました。介護者は近所のアパートに住み、朝の着替えの時間に来て、朝食、昼食、夕食を一緒に食べ、夜の就寝時間までを共に過ごしました。本人と連れて行く人が合意すれば、日本中どこにも旅行に行っていました。つれあいと息子が誘われて、園生と介護者と一緒にマッチの武道館コンサートに行った感動話は、今でも語りぐさになっています。

 私は、午前中に診察してカルテを書き、薬を作り、一緒に昼ご飯を食べるのですが、隣に坐った園生に食事を食べさせることが、新入りには難しくて、あたふたする日々でした。園生の誰かが、風邪から肺炎になると、朝晩、通って点滴しました。命は丈夫なものです。介護者たちは「そろそろじゃない」と噂し合っていましたが、本人と私は一生懸命、注射と薬をこなしているのでした。難しい場合は、近隣の病院に入院をお願いしました。なかなか、すんなりとは引受けてくれません。入院しても大声をあげるので嫌がられました。「天命をまっとうされたらどうですか」と、言われたこともありました。
 一二三学園は1987年に町田市に移転しました。旧田無市に住んでいた私は、通勤に時間がかかり過ぎるために、15年間務めた一二三学園を辞めて、こども診療所を開業しました。「障害にかかわらず、どんな子どもも診療」が、基本の考えでした。狭い待合室で動きの大きな子どもが、赤ちゃんにぶつかりはしないかと心配しましたが、杞憂に過ぎませんでした。ことばの相談室に来た小学生が階段を登って二階の自宅に入り、食器棚のチョコレートを食べてしまったのが、笑い話になったくらいです。その後、いろいろな問題を抱えた子どもに出会った時、既成の枠をちょっと外してつきあえる基盤は、一二三学園で培われたのかもしれません。なかなか、道は見えてこない時もあるのですけどね。


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